葉隠れの山本常朝も絶賛した討ち入り騒動

師走に入ると忠臣蔵が話題になりますね。
一方で、赤穂浪士の討ち入りの前年に起こった長崎喧嘩の話しはあまり耳にする機会がないのではないでしょうか。

長崎喧嘩は1701年12月19日~20日にかけて、佐賀藩深堀領の武士と長崎会所の役人との間に起こった騒動です。別名、深堀事件、深堀騒動、大音寺坂事件などとも呼ばれています。

騒動の内容を伝える案内板
騒動の内容を伝える案内板

事の発端は、万才町の大音寺坂で深堀領の深堀三右衛門がついていた杖が泥を跳ね上げて、町年寄の高木彦右衛門の家来の惣内にかかり、言い争いになったことでした。三右衛門は同行していた甥の志波原武右衛門とともに惣内に謝罪しましたが、酒を帯びていた惣内らはこれを許さず、口論になりました。その場は近所の者の仲裁もあり、一端は収まりました。

 大音寺坂
大音寺坂

しかし、夕方になって高木家側が使用人10人を引き連れて、五島町の深堀屋敷に押しかけて、三右衛門と武右衛門や居合わせた深堀家の者を打ち据えただけでなく、大小の刀を奪って引き上げました。

深堀屋敷跡
深堀屋敷跡

町人階級の高木家にこのような仕打ちをされた深堀家側は黙ってはおらず、その夜のうちに三右衛門の息子・嘉右衛門ら10人が集まり、翌未明に高木家に討ち入りました。高木家当主の彦右衛門は討ち取られ、屋敷にいた者も9人が死亡。彦右衛門の首を槍先に突き刺し、引き上げました。なお、この時に三右衛門は高木家で、武右衛門はくろがね橋でそれぞれ切腹しています。

くろがね橋
くろがね橋( 写真右上 )

長崎奉行の林忠朗は事の次第を幕府に報告し、判断を仰ぐことにしました。事件から3カ月後、幕府からの裁定が下り、
・深堀家側は嘉右衛門を含め10人は切腹、9人は五島列島へ島流し。主の鍋島茂久はお咎めなし
・高木家側は彦右衛門の息子・高木彦八郎は邸内に隠れいたことを問われ家財没収の上、長崎五里四方からの追放、江戸・大坂・京への居住禁止。深堀屋敷へ押し入った者は全員斬首。
と、深堀家側に好意的な判決となりました。五島列島へ島流しとなった9人は五島藩に比較的、手厚くもてなされたそうです。深堀家の嘉右衛門ら10人の切腹は、翌年3月に奉行所の立ち会いのもと、行われました。

 菩提寺の深堀義士の墓
菩提寺の深堀義士の墓。 三右衛門と武右衛門および切腹者10人、島流し9人の計21基あります。

受けた屈辱を晴らすため即刻、行動に出た深堀武士。この無分別とも言える行いを、かの有名な葉隠れの口述者の山本常朝は高く評価しました。山本自身が佐賀藩士だったのもあると思いますが、、、

山本常朝
山本常朝

一方で、赤穂浪士については「又浅野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが越度なり。又主を討たせて、敵を討つ事延々なり。もしその内に吉良殿病死の時は残念千万なり。上方衆は智慧かしこき故、褒めらるゝ仕様は上手なれども、長崎喧嘩の様に無分別にする事はならぬなり」と言及。
・吉良上野介の首を墓前に捧げた泉岳寺で切腹しなかったこと
・主を討ち取られて即、討ち入らなかったこと
などを指摘し、上方武士は人ウケする小賢しい振る舞いは上手と酷評しています。
手厳しいですね、、、

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