藩人口の二割を失った享保の大飢饉
享保17年(1732年)、冷夏と害虫により各地で記録的な凶作がおこりました。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び、その結果ウンカなどの害虫が大量発生して甚大な被害をもたらしました。
とりわけ九州の被害は深刻で、この飢饉により黒田藩でも6~7万人の餓死者が出たと記録されています。まだ総人口が30万人位の頃です。つまりこれが江戸四大飢饉の一つ、享保の大飢饉です。
福岡市内には当時の被害者達を弔う意図で、お地蔵様や慰霊碑などが市内に残っています。同様にこちらの観音堂も、餓死者を供養する目的で建立されました。
この近辺は江戸時代は農村が広がっており、そして直接被害を受けた地域です。
こちらは毛布のようなものにくるんである菩薩様でしょうか?
そして一つだけ立派な観音堂が、広場の中心部に建立されています。
綺麗な花が活けてあり、今も大切におまもりされているようです。
わらべ歌で残る当時の様子
飢饉当時の様子がわらべうたとして残っています。福岡周辺の幼児が手をつないで遊ぶときにうたっていたわらべうたです。
黒田藩が荒戸の米倉から出されるお救い米の炊き出しを、伊崎浜へ貰いに行くのに途中、行き倒れを防止するため、手をつなぎ助け合って行ったことを表しています。飢饉の悲惨さを忘れないようにでしょうか、いつの頃からかうたわれるようになったそうです。