一里塚と神崎そうめんが当時を偲ばせる
天気が良かったので、ちょっと神崎宿に行ってきました。
神崎宿は現在の神埼市にあった宿場町です。入口手前には「ひのはしら一里塚」が残っています。一里塚は旅人の目印などとして小高く土を盛った塚で、幕府が主要な街道に一里(約4㎞)ごとに設置することを命じました。明治になると道路拡張工事などで、大部分が取り壊されました。長崎街道では、ひのはしら一里塚が唯一残っており、大変貴重なものとなっています。
神崎宿は1874年の佐賀の乱で焼失してしまったため、往時の宿場の面影はみることはできません。しかし、当時を偲ばせる文化が残っています。そのひとつとして製麺所が建ち並ぶ通りがあります。
神崎のそうめんの歴史は古く、いまから約380年前までさかのぼります。小豆島より行脚遍歴してきたお坊さんが神崎で倒れましたが、地元の人に手厚く看病されました。その甲斐あって僧侶は快気し、俺に手延べ素麺の製法を伝授したのが始まりだそうです。
清流や良質の小麦がとれる神崎はそうめんづくりに適した場所で、農家の副業として広まり、最盛期には300軒の製麺所がありました。
宿の中ほどに本陣跡があります。神崎宿は佐賀本藩や長崎奉行、近隣の大名なども宿泊や休憩を取った重要な宿です。御茶屋番として佐賀藩士が常駐、管理運営をおこなっていました。
大正時代の建物ですが、本陣跡近くには1914年に完成した旧古賀銀行神崎支店の建物があります。外観は洋風ですが、2階建の木像モルタル作りで、内部は吹き抜けとなっています。世界恐慌で1933年に古賀銀行は解散し、その後は病院として使用されていましたが、2009年に市が買収しました。