土佐浪人らによる貿易会社&私設海軍
おかげさまで早良風土記の記事も200を数えることとなりました。まだまだ頑張っていかないかんなぁと思っておりますので、ご贔屓のほどよろしくお願い致します。
今回は200回の節目として地元長崎はもとより全国的に人気の亀山社中・海援隊を取り上げます。近年は調査・研究が進んで新たな見方も出てきていますが、なんだかんだで大好きな人多いですよね。坂本龍馬をはじめ夢と希望に満ちあふれた青年たちの存在があるから、権力争いで陰惨な面もある幕末という時代が、どこか明るさを感じさせていると思います。
亀山社中は、幕府が運営する神戸海軍操練所で学んでいた坂本龍馬ら脱藩者らが同操練所の解散に伴い、薩摩藩の保護と長崎の商人小曽根家などの援助により、1865年夏に長崎の亀山で結成されました。最大の業績は薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬したことが挙げられています。1867年には亀山社中が発展する形で龍馬を隊長とする海援隊が設立されました。、、、もう説明は要らないですよね。
どういった場所にあったか改めて確認するために亀山社中跡に訪れてみました。傾斜地に広がる住宅地の中に亀山社中跡はあります。いまは長崎市が往時の姿に近い形で整備し、亀山社中記念館として公開しています。行き方は複数あるのですが、今回は深崇寺と禅林寺の間の龍馬通りの坂を登って行きました。
記念館までは300mほどありますが、坂なので結構きついです。風頭公園近くに車を停めて、下っていくが一番楽かもしれません。日頃の運動不足もあって到着した時には肩で呼吸をしていました。途中、海援隊士を紹介した説明文が掲示されています。
10分弱歩くと亀山社中記念館に到着しました。近くには龍馬ぶーつ像が置かれているほか、海援隊旗が掲げられています。
亀山社中があった場所は亀山焼という陶器の焼き場でしたが、1865年に廃窯となりました。龍馬から社中の場所について相談を受けていた小曽根乾堂が、亀山窯を所有する質商・酒商の5代目高田利平宅を訪問。高田家では張り詰めた話し合いの最中でしたが、利平の弟・文平の嫁・トキの「使いまっせ!!亀山ば」のひと言で話しが決まったそうです。高田酒店は現在も9代続く酒屋として商いを続けています。
記念館は老朽化した建物を当時に近い形に復元したものです。母屋は10畳、8畳、3畳の部屋と土間に分かれていました。館内ではブーツやピストル、手紙のレプリカ、月琴、亀山社中の志士達の写真などゆかりの品々を展示しています。また、3畳と土間のの部屋の上側には中2階があり、再現されていますが撮影は禁止となっています。