キリシタンに寛容だった?岡藩
天気が良かったので、ちょっと切支丹洞窟礼拝堂跡に行ってきました。
豊後国・竹田は戦国時代末期の岡城主だった志賀親次が熱心なカトリック教徒であったことから、キリスト教が大いに広まりました。
志賀氏が竹田を去ると、1594年に中川秀成が6万6000石で岡城主になり、中川氏が明治維新までこの地を治めます。秀成も親戚にキリシタン大名がいたためか、キリスト教には寛容だったそうです。
その証しともいえるものが、岡城近くにある切支丹洞窟礼拝堂跡です。この礼拝堂は江戸幕府による1614年の禁教令の3年後に造られ、さらにこの土地は家老の古田氏の所有地であったと考えられています。勿論、岡藩もキリスト教の取締は行っていました。しかし、キリスト教徒の処刑者は他藩に比べると少ないとされています。
殿町武家屋敷通りから歩くこと5分。礼拝堂跡に到着しました。山奥にひっそりと存在すると想像していましたが、城下から極めて近いところにあります。
江戸時代を通じてキリスト教徒を見て見ぬふりしたとも思われる岡藩ですが、1738年に珍事が起こります。商家・垂水屋に数十人が集まって踏み絵を行っていた際に、床が抜け落ちて役人ともども転げ落ちました。底は、なんと地下室になっていて、マリア像(一説には聖母マリアの聖画とも)が設置された祭壇があったそうです。
これは現行犯なので、さすがに見逃せるわけはなく、商家の主人は長崎に送られ処刑されたそうです、、、珍事と書いたら悪いですが、キリスト教徒チェックをしている最中に祭壇が現れた様子を想像したら笑ってしまいました。。。なお、現在も竹田には江戸時代の地下室が残っている家が数軒ありますが、個人宅なので見学することはできません。もしかしたら同じ目的で造られたのかもしれませんね。