福岡で発生した三大お家騒動
おかげさまで、本ブログも300回を達成することができました、ありがとうございます。記念すべき回なので、以前から書きたかった福岡で起きたお家騒動「黒田騒動」について掘り下げたいと思います。
地元福岡の人でも、騒動の内容について詳しく説明できる人は少ないと思います。それでは長年、黒田家の恥としてタブー視され続けてきた黒歴史にお付き合いください。
黒田家屈指の暴君・忠之 爆誕
黒田騒動の発端は、騒動の中心人物の一人、黒田忠之公が誕生した頃にさかのぼります。忠之公は慶長7年(1602年)11月9日、藩筆頭家老・栗山利安の屋敷で生まれました。
この頃は、まだ日ノ本一と謳われた、天才軍師・官兵衛おじいちゃんも健在です。官兵衛も長政も、後継ぎの誕生を一緒に喜んだ事でしょう。
そして黒田家は関ケ原の戦いでの功績が認められ、52万石の大大名へ大幅加増。つまり忠之は生まれながらの大大名の御曹司として、とても大切に育てられました。
実父長政との確執
大切な後継ぎですから、教育係も筆頭家老の栗山利安に任せます。後にこの騒動のもう一人の中心人物になる利安の嫡男・利章(大膳)は、忠之よりも8歳歳上で親子で忠之に仕えました。
しかし、このように重臣達に見守られて過保護に育て過ぎたのか、忠之は日を追うごとに我儘で傍若無人な子供に成長します。そして、対照的に8歳下の弟・長興は品行方正で文武両道、大大名の後継ぎに相応しい器と評判でした。そのような家中の評判を受け、父長政も長興を後継ぎにしようと考えました。
ある日、忠之が利章(大膳)と一緒に川で水練をしていると、それを見学していた長政が利章に「足を引いて沈めてしまえ」と命じたそうです。水難事故にみせかけて出来の悪い長男を間引こうとしたのか、冗談だったのかは分かりませんが、利章はとんでもないと断りました。
鵜来島 集団切腹騒動
日を追うごとに家中の評判が悪くなっていく長男に業を煮やしたのか、とうとう長政は長男の廃嫡を決意しました。
・二千石の田地を与えるから百姓になる
・一万貫の銀子を与えるから商人になる
・千石の寺領を与えるから僧侶になる
黒田家は次男に継がせるから、お前はこの中から今後の将来を決めろと迫ります。
驚いたのは、教育を担当していた栗山家です。慌てて黒田藩上士の家柄の嫡男を全て博多湾の鵜来島に集め、廃嫡を撤回しないと全員で切腹すると長政宛に嘆願書を送りました。
一見、忠之にカリスマ性があるかのように見えますが、筆頭家老の同調圧力が相当にあったのだと思われます。流石にこれだけの数から反対されたのでは、長政も廃嫡案を取り下げざるを得ませんでした。しかし、長政も諦めません。この後は夫婦で協力して、また幾度も長男を廃嫡しようと試みます。(続く)