名将の先見の明

出来の悪い長男・忠之の廃嫡をめぐり、後見役の栗山家と睨み合いを続けていた長政でしたが、同じ頃、妻栄姫の実家・徳川宗家でも跡継ぎをめぐり酷似した争いが起きていました。

家光(左)と忠長(右)

有名な話ですが、将軍秀忠が出来の悪い嫡男・家光よりも、家臣の評判の良い忠長を世継ぎにしようとした話ですね。たまりかねた家光の乳母・春日局は、隠居していた神君・家康公に直訴します。

家康と春日局

その後、家康は直々に家光と忠長を呼び出し、嫡男である家光と家臣の忠長へ対応の差をつけ、「世継ぎには長幼の序あり」という事を諭し、この一件が武家社会に常識化して行きます。

忠之の母・栄姫は家康の養女・つまり戸籍上は忠之も孫にあたります。豪胆な長政も流石に家康の裁定には逆らえず、忠之を世継ぎと認めました。

晩年、将軍上洛に際して忠之と共に先遣を命じられ、京に向かう途中の関ケ原では、教育のため忠之へ戦いの様子を詳細に伝えています。そして「黒田家に騒動がある場合、関ケ原の功を主張し家の断絶を免れるように」と忠之と側近達に言い聞かせました。

京都に到着して一月後、長政は病に倒れてこの世を去ります。死期を悟って残した言葉、長政にはこの先の黒田家の行く末がみえていたのでしょうか。

長政の遺言

さて、死の淵にあった長政は重臣の栗山大膳・小河内蔵允にあて、遺言状を残しました。この遺言状は「黒田長政自筆覚書」として福岡市博物館に現物が遺されています

秋月城跡

内容としてはここでも、黒田家の危機の際に関ケ原の功を主張すること、そして次男長興(ながおき)に秋月5万石、三男高政に東蓮寺(現直方)4万石を割譲する事が指示されていました。

黒田長興(左)・黒田高政(右)

長政公、最後まで忠之の事を信用できなかったようですね(笑)忠之がやらかして本家が改易になっても、家を存続させる為の策を講じていたようです。遺言で43万石に減らされてしまった忠之は怒り狂います。家老たちに遺言だから仕方がないと諭しますが収まりません。

秋月藩の独立と忠之の妨害

さて、新しい大名として公認されるためには、江戸に出て将軍に拝謁して、御朱印を拝領することが必要でした。ところが、福岡本藩から長興の元江戸参府を禁止する命令が届きます。これは兄・忠之が弟・長興を家来として処遇し、秋月は福岡藩領内の一部であると解釈するもので、長興の独立を認めない忠之側の奸計です。

長興は、この命令を拒否して江戸参府を強行します。母・栄姫や小倉藩主の細川忠興へ助力を頼み、僅か十数人の供回りで密かに秋月を出立しました。

追手をかわしながら夜陰に小さな漁師船で関門海峡を渡るなど、苦労を重ねて江戸にたどり着き、将軍・家光と前将軍・秀忠へ拝謁、同年8月には朝廷から甲斐守に叙任されて正式に大名として独立を果たします。朝廷と幕府の両方からお墨付きがあると流石の悪童も手が出せません、独立が果たされた際はさぞかし荒れた事でしょう(続く

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