暴君降臨!恐怖政治の幕開け

遺言騒動などがありましたが、幕府の承認を経て、いよいよ二代目・黒田忠之の治世がはじまりました。

藩主の座につくやいなや、これまでの鬱憤を晴らすかのように大暴走を始めます。それでは数々の逸話をご紹介しましょう。

秀吉でも手に入らなかった名器を武力で強奪

まずは博多商人の神屋宗湛から、名器・博多文琳を「長政の遺言」という嘘を理由に、強制的に黄金2000両と知行500石で召上げてしまいました。おそらく以前から目をつけていたのでしょう。

この名器はかつて、天下人秀吉も切望したほどのものですが、宗湛は「日本の半分となら交換しましょう」と返した逸話がある程の家宝でした。以降は黒田家家宝となり、現在は福岡市美術館へ収蔵されています。

幕府禁制の軍艦を建造

そして、こちらも以前から計画していたのでしょうが、ご禁制の大型船舶「鳳凰丸」の建造を開始します。

軍備拡張を幕府に疑われてしまい、あわてて大膳が幕府へ説明に赴いて、誤解を解く為にすぐに取り壊されました。信長公にでも憧れていたのでしょうか。

名家・門閥を解体 中央集権化を推進

黒田藩は長政の治世までは、古くからの家臣団・黒田二十四騎と呼ばれる重臣達との合議制の色合いが強い藩でした。忠之の治世になると、側近家臣の禄高を増やし、従来の家老達に次ぐ地位に取立て藩政に加えます。明石四郎右衛門郡正太夫など財政実務に長けた家臣の外に、とくにお気に入りだった倉八十太夫は200石の鉄砲頭の家柄でしたが、一気に9千石取の家老職にまで引き上げます。

また、独断で新規に足軽200人を抱え、一銃隊を編成して十太夫につけました。これは幕府から軍縮を求められていた時代ではご法度の行為、改易の理由にもなりかねない暴挙でした。

当然重臣たちの反発がありましたが、忠之は逆らう者へ容赦なく所領減封や改易など強硬策を取り、最後は幕府の調停まで入りながらも、権力でねじ伏せて中央集権化を進めます。

栗山家家宝の合子形兜と唐皮威の鎧を強奪

栗山家が所持していた、如水公より拝領した合子形兜と唐皮威の鎧。ある日突然、黒田家伝来の家宝であり、代がわりしたのだから返せと大膳から召し上げてしまいました。

釈然としない大膳でしたが、渋々返上しました。しかし、後日に召し上げた家宝をお気に入りの倉八十太夫に下げ渡された事を知ります。大膳は怒り心頭で、倉八の屋敷へ行き「この兜は汝等風情の持つべきものではない」と取り返し、藩の蔵に納めてしまいました。倉八は辟易して、自分の髷を切って陳謝しています。

この頃から後見役・栗山大膳などの重臣達と、藩主・黒田忠之とその側近達の間に完全に溝ができました。

空誉上人を惨殺

ある日、忠之が地福寺の住職・空誉守欣の弟子を気に入り、小姓として差し出すように命じましたが、断られた為に癇癪を起しました。処刑場で釜に入れて背中を太刀で割り、煮えたぎった鉛を流し込み惨殺したと伝えられています。

地福寺は取り壊され、代わりに水鏡天満宮が建立されています。弟子が死体の引き取りを願い出たが許されませんでした。弟子の舜道上人は夜中に死体を背負って浄念寺に持ち帰り、土葬して師の高恩に報じ、慰霊のために「空誉堂」を建てています。

処刑の理由は諸説あり、他にも出奔した後藤又兵衛の説得に失敗した為や、お綱事件の祟りなど多々ありますが明確な理由は分かっていません。ただ、処刑したとれる場所は現在も天神中央公園に残されています。

側室を自ら調達してご懐妊

早良の山奥へ鷹狩に訪れた忠之は、坪坂という浪人の娘を見初めます。ワイルドな忠之は、そのまま彼女を御城に連れ帰り側室へ取り立てます。坪坂はたちまち懐妊して、実家のある橋本で男児を出産しました。この子が後の三代目藩主・黒田光之公です。

光之が生まれ育ったた橋本八幡宮

忠之にはすでに、幕府からの縁談で松平家から嫁いだ正室梅渓院が居た為、宿老達は対応に苦慮しました。しかし梅渓院は光之誕生から二か月後、二十三歳の若さで亡くなります。黒田家にはこのようにタイミングが良すぎる形で亡くなるケースが多々みられますが不思議ですね。

晴れて坪坂(養照院)は継室となり、光之は世子となる事が出来ました。

家老よりも浦姫様

長政の治世の頃、糸島在住・浦新左衛門の妻に神懸かりがあり、浦姫様と呼ばれ住民に崇めれた巫女がいました。浦姫様の噂はお城まで届き、忠之は家臣を使いにやってよく当たるのを知り、自ら尋ねて信奉するようになりました。藩政までもご神託で決めるまでに傾倒して行きます。

浦姫宮

黒田騒動が勃発した折は、幾度となく浦姫の元を訪れて神託にすがった記録が残されており、「殿様通り」や「相薗橋」など、忠之ゆかりの地名が今も残されています。

忠之との訣別から日田出奔へ

再三に渡る諫言をガン無視され続け、それでもめげずに忠之に意見し続けていた大膳でしたが、話すらまともにできないほど険悪な仲になってしまいました。仕方なく大膳は側近の倉八十太夫に頭を下げて、忠之を諫めるように依頼しますが、倉八はその依頼を握り潰し、逆に忠之を煽って大膳を排除しようと動きます。

上座郡左右良の朝倉三連水車

毒殺までされかけた大膳は、自領の上座郡左右良城に逃げ帰り、病気を理由に引き籠りました。再三に渡る呼び出しにも応じず、帰国の出迎えにさえ顔を出さなくなった大膳に忠之は激怒。「おのれ大膳、成敗してくれる!」と側近達に命じて出兵しますが、宿老達が宥めて間にはいりました。

ここからの様子は黒田家譜に細かく記録されています。井上道柏小川内蔵允が使者として話をすると、大膳は剃髪して人質を出すなど恭順の意を示す・・・かに思われましたが、追い詰められて進退窮まった大膳は、なんと幕府の直轄領・天領日田へ出奔!
「我が主君に謀反の企てあり!」と日田代官所へ駆け込みました。(続く

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