冷水峠越えの前後の休息場
天気が良かったので、ちょっと内野宿跡に行ってきました。
黒田官兵衛は、軍事上の理由から他国の大名が福岡の城下町や博多を通過するのを避けるため、冷水峠越の長崎街道の新設を発案しました。1603年に着工し1611年に冷水の道が完成します。その後、参勤交代の制度が1635年に定められますから、整備した甲斐があったというものですね。さすがは官兵衛です。
この東構口から西構口までの街道筋には200軒もの商家が軒を連ねていました。碑ばかりが建っている現在から考えると、想像もできないほどの賑わいだったと思います。
大名が宿泊する本陣は長崎街道では茶屋と呼ばれ、重臣や時には大名が宿泊する脇本陣も、中茶屋や下茶屋と呼ばれていました。内野宿では薩摩屋と長崎屋の2軒が脇本陣でした。
内野宿には黒田藩主の別館があり、ここを本陣にあてていました。参勤交代の諸大名のほか、長崎奉行、日田郡代など幕府の役人も宿泊しました。建物の一部は明治になって飯塚市の西光寺に庫裏として移築されました。周辺には庄屋屋敷跡や代官所跡があります。