大膳の勝算と大博打
進退窮まった大膳は、九州大名の総目付けで日田代官の竹中采女正に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出します。幕府の権威を持って忠之の行状を正してもらう、自身は主に対する反逆の罪に問われることを覚悟しての行動でした。
しかし、一歩間違えれば黒田藩が改易になりかねない大博打です。事実、同じ頃に長政の盟友とも言うべき間柄だった、福島家や加藤家が改易になっています。
ただ、大膳には勝算があっての行動でした。
・日田代官の竹中采女正は竹中半兵衛の甥。半兵衛と如水は秀吉の元で同じ軍師として働いており、長政は半兵衛に匿われて命を助けられたほど、黒田家とは深い関係性がありました。また、日田と大膳の所領は20kmほどしか離れておらず、日頃から付き合いがあったと思われます。
・幕府が運営する学問所には、大膳の師匠である林羅山が教鞭を取っており、学閥によるバックアップが期待できました。何より大膳自身も幕府に人脈が豊富だったようです。
・そして切り札が長政が遺言状と共に残しておいた関ヶ原の戦で家康公が長政に与えた感状です。神君家康公のお墨付きがあれば、改易までには至らないだろうと計算したようです。
直接対決 幕府評定所
天下泰平が浸透し始めた頃に、大藩の筆頭家老が謀反を訴えたので幕府に激震が走りました。双方を江戸へ呼び出し、老中の前で評定を行う事になります。
しかし忠之は、生き恥を晒すぐらいなら切腹する!嫌じゃ嫌じゃ!!と拒絶します。仕方なく黒田家からは家老の中では長老格の黒田美作と小河内蔵允が出頭しました。
いよいよ開かれた評定所では、黒田家の家老同士が激しく応酬します。しかし、大膳の答弁には矛盾点が多かった為、大膳だけを呼び出して聞き取りを行いました。すると真意を語り出しました。
「このままでは黒田家は改易の危機を迎えることになる。そうならないために、あえて騒動を起こし、幕府の介入により主家を存続させようという狙いだった」と話し、落涙しながら「藩の取り潰しはわが本意ではない」と語りました。
我が身を犠牲に主君を諫めた行動に、老中たちも「さすがは黒田の家臣」と感心しました。
評定決着 大膳の行き先
寛永10年、将軍徳川家光が直々に裁きを下しました。黒田忠之は所領を一旦幕府に召し上げられましたが、父長政の功により特別に相ゆるすということで、所領安堵という結果になりました。
そして、栗山大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなります。しかし幕府から生涯150人 扶持 、五里四方出歩き自由とされ、南部家からも異例の厚遇で迎えられました。大膳は茶の湯にも造詣が深く、盛岡城下の文化興隆に寄与したといわれ、子孫は南部家に仕えています。
所領安堵 忠之のその後
所領は安堵されたものの、右腕だった家老の倉八十太夫は高野山に追放されました。幕府からは宿老達との合議制で政を行うようにお達しがあり、以降は粗暴な性格はなりをひそめ、ひたすら幕府に恭順する姿勢を貫きました。
その後、忠之は島原の乱で活躍し、長崎警護を任されるほど幕府から信頼されるようになります。また、黒田騒動の折には、ひたすら願掛け祈願をしていた為か、歴代の藩主で最も宗教を保護しており、忠之が建立した寺社仏閣が福岡には多数残っています。