対馬藩の飛び地だった宿場
田代宿 跡へ寄ってみました。鳥栖インターの近くで、有名な製薬会社などがある地域ですね。
福岡から長崎へ向かう場合、肥前に入って最初の宿場町になります。確かに街道筋の雰囲気を色濃く残していますね。
田代宿 跡の色々な所に、かつて宿場町だった事を示す案内板などが建てられています。
記録によると、江戸時代の 田代宿 には荒木屋・長崎屋・竹屋・肥前屋など、多くの旅籠が並んでいたそうです。
かつて高札場があった場所です。高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。
そして、街道沿いにある田代小学校はかつて田代代官所でした。当時は御屋敷と呼ばれ広大な敷地に建てれていました。
田代宿周辺は、かつて対馬藩の飛び領地で一万三千石を算出する、藩の財政を支える大切な土地でした。そして代官所は飛び領地を収める為の政治の中心地です。
当時の屋敷の設計図(指図)は現存しており、鳥栖市の重要文化財に指定されています。
街角のえびすさんです。佐賀市内に入ると800体以上のえびすさんが祀られています。佐賀が地理的に近いのでその影響でしょう。
街道が整備された当時から存在していたお寺、今も健在です。
田代宿 八坂神社
さて、街の中心にある田代八坂神社です。街道の際に鳥居が建っています。
長崎街道にある 田代宿 の位置関係を示した地図です。陶磁器製なのが佐賀らしいですね。
こちらにも田代宿の説明案内がありますね。江戸時代は田代宿が日田道と久留米道の分岐点だったようです。
人名の石碑がありました。烏田猛さんは鳥栖の警察官で、昭和二十八年に泥棒と格闘の末に殉職された方です。当時まだ37才の若さでした。警察最高の栄誉である功労賞が授与されると共に二階級特進されています。
田代八坂神社の境内です、広々としています。
こちらが御本殿、江戸時代から旅人の無事祈願が絶えなかったでしょう。
立派な御神木、かなりの年数が経っていそうな巨木です。昔は目印だったのではないでしょうか。
他にも石仏や石塔が点在しています。
これは何の建物ですかね?保存の為に移築したのかもしれませんが。
すぐお隣にはお寺がありますが、境目がないような・・・不思議な造りです。
高杉晋作と田代宿
高杉晋作の漢詩を写した石碑がありました。実は田代宿は代官の平田大江が勤王派として知られており、勤王の志士達の巣窟のような状態であったといわれています。
したがって高杉晋作は下関挙兵の前にこちらに訪れ、肥前の鍋島閑叟へ向けて挙兵を促す書状をしたためた後、平田大江に託しています。
その後、残念ながら佐賀藩は動きませんでした。そして対馬藩内では勤王派への大弾圧が行われ、主だった勤王派は一掃されてしまいました。
境内には近代的な公民館も完備されています。
広々とした境内を備えた気持ちの良い神社ですね。
最後に民家に残っている田代代官所表御門を見学して終了。まだまだ宿場だった頃の遺構が残っていて、見所の多い宿場跡でした。