2万人が参列した告別式

最近は落語家の六代目・三遊亭円楽さん、元プロレスラーのアントニオ猪木さんと、著名人の逝去が続いていますね。子供の頃から見ていた方々だけに、訃報を目にしたときには驚きました。

博多・天神落語まつり行ったなぁ
赤いタオル・マフラーが似合い過ぎる

死亡記事の扱いの大きさで、その人間の業績が計れるものでは無いですが、一定の指標になるのではないでしょうか。きょう5日で頭山満が死去して79年目となります。そこで当時のマスコミは頭山の死をどう伝えていたのか、朝日新聞を調べてみました。

驚いたのは翌日の6日付けは訃報記事が出ていました。早いですね。5日の午前0時35分に無くなったこともあり、時間に余裕があったのでしょうか。6日付けの1面のコラム「神風賦」と2面に紙面の約4分の1を割いて頭山の記事を掲載していました。神風賦は、いまの天声人語にあたるものですね。

2面では「頭山満翁逝く」の見出しからはじまり、脳溢血で死亡に至った経過から遺体の安置場所、関係者のコメント、生前の功績などを紹介しています。コメントでは総理大臣経験者の廣田弘毅が頭山との出会い時のエピソードなどを語り、「清濁併せ呑むというより、清濁すべてがまるで素通りしていく位の大きな道の人でした」と結んでいます。インドの独立運動家で深い交流があったラース・ビハーリー・ボースも頭山を偲んでいます。

また、1面の神風賦では、名もいらぬ、金もいらぬ、命もいらぬ人であったと高く評価。最後に、死せる頭山の大喝は必ずや、東亜覚醒の活路を開くと書いています。朝日新聞がこのような記事を書くとは、、、時代ですねぇ。

翌7日の記事にも関連記事を掲載。廣田弘毅、緒方竹虎ら玄洋社関係だけでなく、当時の陸軍大将、大蔵大臣、農商大臣などが弔問に訪れたと紹介しています。

11日付けにも掲載。10日に東京の増上寺で告別式が行われ、小磯國昭内閣総理大臣、近衛文麿公爵をはじめ各界の名士、また無名の人々、2万人が参列したと伝えています。傑出した大人物だったとはいえ、在野の士にこれだけの面々が集まるとは、本当に驚きです。いかに国民的な人気があったのかが、うかがえます。

関係ないですが、大正2年まで生きた徳川慶喜の訃報はどうだったのか気になったので、調べてみました。すると死去した翌日だけで3ページまるまる使って、紹介しています。翌日以降も大きく扱っていました。やはり将軍様ですね。

死去ではなく薨去という見出しに貴人だと思い知らされます