旗本垂涎のポスト
おかげさまで当ブログも400回目を迎えることができました。今後ともご贔屓のほどよろしくお願い致します。節目の今回は長崎奉行をご紹介したいと思います。
長崎奉行は江戸幕府の遠国奉行のひとつです。遠国奉行には伏見奉行・山田奉行・日光奉行・奈良奉行・堺奉行などがありましたが、長崎奉行はこの中でも筆頭として格付けされていました。初期は大名や5000石級の大身旗本が任じられていましたが、時代が下ると1000石以下の旗本が登用されることが多くなりました。
奉行所は当初、現在の長崎市万才町にありましたが、1663年に火事で焼失すると、江戸町に西役所と東役所が建てられました。ここは後に長崎県庁舎が建ち長く使用されていました。1671年には東役所が長崎市立山に移され、立山役所と改称。西役所と立山役所を総称して長崎奉行所として明治維新まで続きまます。
幕府権力の執行機関である長崎奉行は任務も多岐にわたります。行政、司法はもとよりキリシタン探索、異国警備に関する西国大名への指揮、貿易の監督と実施、密貿易の取締などなど。当初はキリシタンの取締が重要視されていましたが、時代が下り、近海で外国船が騒がしくなると異国警備に目を光らせるようになります。
気になる収入ですが、記録によると役料は4000両(1818年)、3000両(1832年)、6000両(1846年)となっています。1両を10万円とすると結構な収入ですよね。最もこの本給よりも副収入がはるかに上回ったことはよく知られていますよね。代用的なものが、中国、オランダからの輸入品を検めるという「御調物」の名目で安価で購入し、京や大坂で数倍の値段で転売し大いに利益をあげていました。また、中国人やオランダ人からの贈り物があり、1回の長崎在勤で末代まで安泰な暮らしができるとされていました。
当然、気のポストだったそうで、その就任のためにこぞって猟官運動を行いました。運動費は莫大で数千両円もの大金が投入されたとか。就任すればそれを遙かに上回る収入があったのでしょうね。このため長崎奉行というと蓄財のみに執心した人ばっかりというイメージを持ってしまいがちですが、いつの世も割を食う人はいるもので、、、あの有名なフェートン号事件時に在職していた松平康英はそのひとりだと思います。。。
せっかく長崎奉行なれたのに、イギリス人が長崎港に土足で踏み込んでカツアゲして帰るわけですから、たまったもんじゃないですよね。わたしだったら「よりにもよって自分の時に、、、」と落ち込みますが、康英はどうしたのでしょうか。次回に続きます。