カツアゲで済んだフェートン号事件

イギリス艦が出港したのは事件から3日目の8月17日の朝。実は日本側は律儀に、この日も食料などをイギリスに提供しています。水五艘、薪二艘、芋二百斤、タバコ五斤など。要求したものが全て手に入ったペリューはオランダ商館長に礼状を書いたそうです。

オランダ商館長居宅

責任を痛感した松平康英

結果的に日本への攻撃もなく、オランダ人の人質も無事に解放されたので、一件落着という見方ができますが、、、松平康英は「天下の恥辱を異国へ現はし候」と、18日未明に西役所で切腹して果てます。へそを一文字に引いて、のどを刺し通していました。現代人からしたらこれ位でと思ってしまいますよね。近年、日本周辺で起きてることを考えたら、何人切腹しなければならないのかと。。。

松平康英が眠る大音寺

松平康英は相当に無念だったようで、遺体のそばには五箇条からなる長文の遺書がありました。要旨は
一、オランダ人両人を奪い取られ、日本の恥辱に相成り」、いまさらご公儀のご威光をけがし、申し訳なし
一、肥前の番衆、内々にて国許へ引き取り、今更ながら無念のいたりなり
一、大村上総介儀、いま四時間ばかりも早く到着していれば焼き討ちできたのに残念だった。長崎奉行にはもっと多くの兵を率いれる大身の者を任命したほうが良い
、、、などなど。佐賀藩が十分な兵を在番してなかったことや大村藩の到着がもう少し早ければ、イギリス艦を焼き討ちにできたのにと、無念さが伝わってきます。

松平康英の墓

佐賀藩もタダでは済まされず

当然、佐賀藩もお咎め無しとはならず、長崎警護を福岡藩と交代させ、藩主・鍋島斉直を江戸城に呼び出して蟄居100日を命じました。また、警備責任者の深堀豊前、鍋島主水など家臣7人が引責自刃してしまいます。

佐賀藩9代藩主・鍋島直成

日本はタダで済んだのでは、、、

フェートン号事件はイギリスと、オランダを支配下に置いたフランスとの争いが要因で、江戸後期にみられるような通商交渉ではありませんでした。このためカツアゲで済んだのは幸いだったかも。もしも鍋島藩が規則通りに1000人以上の藩兵が長崎に詰めていたり、大村藩の到着が早ければ、イギリス艦に砲撃したと思いますが、相手は当時、世界最強の海賊。反撃され長崎の町は火の海になってたと思います。そう考えたら結果オーライだったのかもしれませんね。