佐賀領西端の宿

天気が良かったので、ちょっと嬉野宿跡に行ってきました。
長崎へ向かう道中で塩田道の塩田宿から、または武雄道の塚崎宿から嬉野宿に到着します。
塩田道と武雄道の合流点になりますね。

東構口跡周辺

東構口から西構口までは約500mで、この間だに30軒ほどの旅籠、木賃宿や商家、農家などが100軒ほどありました。佐賀藩の支藩である蓮池藩が管理していましたが、構口は平常時には監視する者も扉もありませんでした。

東構口跡

当初、長崎奉行や大名らは通過するか小休憩をするだけで、宿泊することは希でした。この周辺では牛津宿に泊まり、次の宿泊地は彼杵宿だったのがほとんどで、間だにある嬉野宿は利用されませんでした。しかし、1791年に牛津宿が大火で中心部が焼失すると、嬉野宿の宿泊者が増えるようになり、1797年に正式に長崎奉行の宿泊地として定められました。

明治時代の嬉野宿

だからといって、大もうけできたかというとそうでもなく、長崎奉行や大名など公用者は、幕府が定めた安い価格で泊まることができました。その一方で特別な接待が必要で、不足分は佐賀藩の接待費で賄われたそうです。それでも宿場が成り立ったのは、藩営浴場などを利用する一般旅行者や湯治者などからの儲けがあったからだとか。

あし湯

嬉野宿には本藩との藩境界を定めた藩境石が至る所にあります。1781年に蓮池支藩と佐賀本藩との間だに境界紛争が発生。4年の歳月を経て本藩の完勝で決着し、20m間隔で約2000個の石が置かれました。本藩と支藩との仲は悪いのが一般的ですが、やはり支配地を巡る争いに起因することが多かったのでしょうね。

藩境石。百十九と番号がふられています
こちらは十九
藩営浴場跡に整備された湯宿広場

街道沿いに地元の尊崇を集めた豊玉姫神社があります。

豊玉姫神社の鳥居

豊玉姫神社のお遣いは、なまずで、古来より肌の病にご利益があるといわれています。豊玉姫は水の神、海の神ですが嬉野温泉の効能と相まって、美肌の神様としても知られています。

手水舎。なまず様に温泉をかけます。
拝殿

通りに戻り、少し歩くと西構口跡に到着です。

西構口跡

この西構口から500mほど離れた瑞光寺という寺院が本陣として利用されていました。宿場の中心部からは少し離れています。

瑞光寺の総門
総門をくぐると山門が見えます。流石に立派ですね
本堂