黒田忠之により勧請された愛宕権現

愛宕神社へやってきました。正月だけで70万人の参拝客が訪れる、福岡市内でも人気の神社です。

参拝客が多いだけあって、参道は北側に車道と南側に3本通されています。頂上までは15分ほどの軽いハイキングになります。

大鳥居を抜けて急な階段が続く参道は通称「男坂」。昔から難しい願い事には、こちらの坂が選ばれ、昭和初期まではふんどし姿に榊を口に咥え、一気に坂を駆け上がる光景が良くみられたそうです。

鷲尾愛宕神社 男坂

元々は鷲尾山には鷲尾権現という神様が祀られていましたが、2代藩主黒田忠之公の時代におきた黒田騒動を、愛宕権現の霊験により乗り切った事から京都からこの地に勧請されました。

内弁慶な忠之公は、黒田騒動勃発時にびびりまくってひたすら神仏にすがりました。その結果、藩内に多数の寺社仏閣を御礼として建立し、藩の財政を傾けています。

黒田藩からは広大な社領が寄進され、名称も愛宕神社になりますが、明治期に入ると境内社においやられていた鷲尾神社を合併して、鷲尾愛宕神社になります。現在でも県内有数の参拝者数の神社で、別表神社として指定されています。

別表神社とは神社本庁から、規模が大きく特別な扱いを受けている神社のことです。わかりやすく言うと、知名度の高い神社ですね。

鷲尾山全体に参道が敷かれている為、階段はかなり長めです。部活動の練習に利用されているのをよく見かけます。

男坂を上るのはキツイので、東側の「女坂」を上りましょう。かつては足腰に自信がない人の為に参拝客用ケーブルカーもひかれていました。

女坂は最初はなだらかですが、段々と傾斜がキツくなっていきます。

 

愛宕山と探題城

鎌倉時代に起きた蒙古襲来の後には、玄界灘を見渡せるという理由から探題城(鷲尾城・探題城・姪浜城・浦城)が築かれました。

その後、後醍醐天皇の倒幕運動の広がりにより、九州の豪族達の手によって焼失、鷲尾神社も衰退の道を辿る事になります。

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