山神社と遷座された神々
山神社は曲渕城の主郭部に社殿が建てられており、さらに拝殿内に入ってお参りする事もできました。
祭神は大山積神、岩永姫命、木花開耶姫命の3柱です。
山神社は天暦四年に小国源左衛門により現在の曲渕ダムの場所に建立され、その後こちらに遷移されました。
基本的に開けっ放しになっています。だけど管理されている方がこまめに清掃しているのか、拝殿内部は綺麗な状態です。
さて境内を散策しましょう。石碑です、こちらもおそらく旧曲渕村にあったものでしょう。
かなりの時代を感じさせる様々な神様が祀られています。
本殿横には境内末社もありました、しかし扁額が風化していて読めませんでした。
こちらも、かなり年代ものの手水舎。水は豊富な場所ですが、止めてあるのか流れていませんでした。
曲渕に残る出世伝説
さて、こちらの曲渕城主・曲淵河内守氏助(房助)にはこのような伝説が残っています。
鎌倉時代に農具専門の鍛冶職だった甚五郎という男がこの地に住んでいました。ある日、一人の旅の老僧に宿を請われ、親切にもてなしました。老僧は礼を言うと甚五郎に手紙を渡し、この地の領主に届けるように言って去ります。後日、領主の原田氏に手紙を届けると原田氏は甚五郎を城に呼び、曲渕一帯の土地を与えて配下にしました。なんと旅の老僧は隠居して出家した元執権・北条時頼で、手紙の中身は推薦状だったのです。その後、甚五郎は曲渕の丘に城を築き、曲淵河内守と称しました。
早良の民話
言い伝えの真偽は定かではありませんが、鍛冶屋から身を起こして城持ちに出世した人物が居たことは確かなようです。
しかし残念ながら、天正十五年・豊臣秀吉により本城の高祖山城が攻め落とされました。
その後、主君の原田氏と連座して曲淵氏も滅び、河内守や家臣達は散り散りになったそうです。