龍造寺軍、馬立山に布陣
龍造寺軍5000の軍勢は早良軍内野村の馬立山とその周辺に集結し、軍議を開きます。大将の執行越前守は内野山、原田和泉守正信は飯盛山、曲渕綱佐は平原、池田大教坊は池田に陣地を敷きました。安楽平城とは目と鼻の先です。
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小田部軍、必死の防戦
小田部軍と龍造寺軍は荒平山のふもと脇山川で何度も激しく戦います。龍造寺軍は小田部勢の必死の抵抗に安楽平城へ近づくことすら出来ませんでした。
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降伏勧告
龍造寺軍は一策を案じ、小田部鎮元に矢文を送ります。手紙には大友宗麟は既に耳川の戦いで戦死したと偽り、降伏と引き替えに命の保障と所領の安堵する旨が書かれていました。
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これに鎮元は「大友摩下において名を得た小田部鎮元、どんなことがあろうと目前の小利に眩惑して敵に降をほまれ乞うものか」と、勧告を拒否します。これに対して龍造寺軍は力でねじ伏せることを決断し、筑後に遠征していた龍造寺隆信軍の一部を応援に向かわせます。これにより安楽平城への攻撃は日に日に激しくなりました。
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勝ち目がなくなった鎮元は家臣を集め「城を出て行くものは遠慮無く出て行くように」と申し渡します。自身は切腹する覚悟だったようです。しかし、小田部の恩顧を受けた家臣らは足軽、小人に至るまで退散するものは1人もいませんでした。城主・鎮元、嫡子・九郎をはじめ、騎馬の士164人、歩行の侍420人足軽300人、小人180人ら小田部軍1000人は籠城の覚悟を決めます。
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龍造寺軍の水攻め
龍造寺軍は、安楽平城内の水の手(取水口や井戸)を断つ戦法に出ます。スパイとして送り込んでいた僧が安楽平城の水路を探ると、重要な秘密の水路を発見。荒平山からほど近い池田城の城主・池田大教坊が案内役として、水路を襲撃し破壊します。これにより小田部軍は水が枯渇し一気に欠乏していきます。その一方で龍造寺軍に水はまだまだあるぞと思わせるために、城内から馬の背に白米を流して馬を洗っている振りをみせたという話しが伝わっています。わたしも祖母からこの話しはよく聞かされました。
城からの突撃
籠城から半年が経った1579年9月、これ以上の籠城は不可能とみた小田部鎮元は城内から打って出ることを決断します。ちょうどその頃、立花山城の立花道雪が十時次郎を大将とする兵1000人を安楽平城に派遣し、入部の老松神社に布陣します。
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また、鷲ヶ岳城の大津留氏からの援軍も到着。小田部勢の士気は大いに上がります。9月11の早朝に龍造寺軍に総攻撃をかけることになります。いよいよ決戦です。
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