飛び地経営に苦心する中津藩

糸島にある深江宿を散策しています。前回、延寿院を訪れた際に面白い史跡をみつけました。

中津領石碑と立札があります。前回の説明の通り、江戸時代中期以降は深江宿は中津藩の管轄になります。そして、ここ延寿院の道を挟んで向かい側に奉行所がありました。

こちらが中津藩領である事を示す石碑。残念ながら上は削れていますが、という文字が残っています。

同じ敷地には、宿場らしく旅人に信奉された猿田彦大神の石碑も。

深江宿内には小さな祠も多数みられます。旅人が無事を祈願していた名残でしょうか。

中津藩と三御領体制

前回触れた通り享保2年(1717年)より、深江宿は中津藩の管轄になっています。中津藩の藩領は、現在の大分・福岡・広島の3県を飛び地として統治していた為、「三御領」と呼ばれました。

こちらは中津藩の船着場跡です。怡土郡内の年貢米およそ2万石をここに集積して、船で中津と往来していました。奥平家は加増されたとはいえ、飛び地になってしまった為、領地経営に大変苦心したようです。

集積された年貢米は、上で取り上げた延寿院の隣にあった横濱御蔵と呼ばれた倉庫に集められました。

また、当初は地元から地代官を抜擢して深江宿を管理していましたが、文政十二年(1829年)に奉行所を新設し、本藩から郡奉行を派遣して統治しました。

郡奉行の下には小頭、代官、郷目付などの役職があり、その他に治安を守る目明しや水夫といった役職もありました。また各村には庄屋など村役人を任命して村内を管理させ、それを統括する大庄屋も設置されています。

享保2年の記録では、有田・蔵持・富・飯原・長野・小倉・川付・瀬戸・神在・武・松国・波呂・長石・満吉・石崎・片峰・河原・松末・一貴山・深江・深江町・淀川・佐波・大入の計23ヶ村1町が中津領になっていますが、幕末期には加増があったようで少し増えています。

奥平家の家臣には、『解体新書』を著した前野良沢や近代教育の父といわれた福澤諭吉がいますが、二人とも長崎留学の際には、中津と往来する藩船に便乗し、深江宿から長崎へ向かったんじゃないでしょうか。

その他にも朝鮮出兵の折には、太閤秀吉が立ち寄り、茶会を開いた記録も残ります。