熟練の老船乗りに起きた悲話

糸島にはかつて、怡土志摩(糸島)水道と呼ばれた海峡が、現在の泊地区付近まで東西から伸びていました。この海峡より北側を怡土郡、南側を志摩郡と分けていました。この海峡が江戸時代からはじまった干拓事業により、徐々に現在の糸島半島の形に整地されていきます。

昔々、現在の前原小学校の近くに、船に人を乗せて運ぶ渡し舟を生業とした金六という老齢の渡し守がいました。ある師走の日、大風に加えて雪まで降り出したので、早々に仕事を切り上げて家でくつろいでいると、戸板を激しく叩く音がします。あけてみると近所に住む六蔵という気建ての良い若者でした。

『おじさん、一生のお願いだ!対岸まで渡してくれ!!』と切羽詰まった顔で懇願してきます。理由を尋ねると、対岸に住む恋人が明日、同じ集落の若者と祝言をするという。どうしても恋人に会って彼女の真意を確かめたいと、泣きながら訴えます。時化の日の夜に漕ぎ出すなど自殺行為だと説得していた金六でしたが、六蔵の懇願に同情心が湧いてしまい、結局船を出すことになりました。

大荒れの海峡を二人で協力しながら、なんとか対岸まで辿り着き、若者を恋人の元へ送り届けました。しかしその後、ひとりで対岸まで戻ろうとした金六は、荒れ狂う波にのまれてしまいます。翌日、海岸に打ち上げられていた金六の遺体を村の人達が引き上げ、いつも舟を繋いでいた松の根元に埋葬しました。

この渡し守の金六さんのお話は実話で、法要の記録などからおそらく江戸時代頃だと推測され、お墓も実際に残っています。場所はアソカ幼稚園の交差点のすぐ近く、現在は空き地になっている場所の一角です。

この草が生い茂っている場所が、かつて金六さんが渡し舟を営んでいた場所でした。この辺まで入海だったとは驚きですね。

近づいてみると草むらの中に墓石を発見!

近づいてみると確かに「渡守金六之墓」と彫られています。現在は金六さんのお話を知る人も少なくなっているのでしょうか、ほとんど手入れはされていないようです。

しかし、六蔵さんは陸路で恋人に会いにはいけなかったのでしょうか?もしかしたら、かつては怡土郡と志摩郡を結ぶ道には関所のようなものがあって、夜間は通行できなかったのかもしれませんね。もしくは、恋人の集落の人達による妨害などがあったのかも。この辺は深掘りして、何か分かれば追記します。