鎮魂の為に造られた山茶花塚
糸島市立波多江小学校の横を流れている瑞梅寺川です。かつてこの周辺地域を池田と呼び、池田の河川敷では戦国時代に糸島全土を巻き込む大きな合戦が起こりました。
戦国期の糸島には、豊後を本拠地に筑前まで勢力を伸ばしていた大友氏系の臼杵氏が志摩郡に、周防を本拠地に九州に勢力を伸ばした大内氏系の原田氏が怡土郡を治めていました。原田氏は大内氏滅亡後は一時的に大友氏に服属したので、一応形だけは同じ勢力になります。
事の発端は、原田氏が志摩郡にある今津の毘沙門天を参拝した帰路の事。常日頃から原田氏を掃討する機会をうかがっていた臼杵氏は、伏兵を用いて参拝帰りの一行を急襲します。
しかし多勢に無勢のこの状態でも、原田氏の郎党は果敢に応戦してなんと返り討ちにしてしまいました。命からがら居城へ逃げ帰った臼杵氏一門は武門の恥だと、復讐を誓います。
一触即発の状態が続いたある日の事。臼杵氏が平等寺へ参拝に出掛けると、それを攻め込んできたと勘違いした原田氏は兵を急行させ、池田河原で襲い掛かりました。不意を突かれた臼杵氏一門でしたが、何とか体制を立て直して近隣の郷士へ助勢を求め、それに応じた者が駆けつけて大乱闘になります、これが池田河原の合戦です。
押し返された原田氏は援軍を送り、糸島全土を巻き込む戦に発展します。戦況は次第に原田氏優勢になり、居城へ撤退しようとした臼杵氏一門は次々と討たれていきました。当主であった臼杵鎮氏は平等寺へ立て籠もるも、門を打ち破られて28名の郎党全員が自刃します。
由来についての案内板がありました。平等寺は臼杵一門が自刃した際に、戦火で一度焼失してしまったそうです。その際に寺宝も大半が失われました。
現在の平等寺は江戸時代に入ってから再建されたもので、戦国時代から一時的に法灯を絶やした時期が存在します。
ただ、本尊であった観音像は持ち出されて無事で、現在も観音堂に祀られています。
そして平等寺の梵鐘であった朝鮮鐘は、博多の聖福寺へ移され、現在は国の重要文化財に指定されています。
では、平等寺の本堂へお参りしましょう。
平等寺に関しては、貝原益軒も記録に残しています。江戸時代前期には寺はまだ再建されていなかったようです。
潤村 平等寺趾
昔此所に平等寺と云禪寺有。大寺にして宅地方一町有とかや。大友氏尊崇の寺成しが、今は亡びて其址さへ定かならず。其寺に在し観音、今猶存して土師に在。鐘は今聖福寺に在。彼平等寺には寺領も多かりしと云傳へたり。
筑前国続風土記 巻之二十三 志摩郡
寺の境内にはかつて、臼杵氏一門の冥福を祈る為に山茶花を一本植えた山茶花塚(臼杵塚)というものがありました。また、周辺には合戦の犠牲になった者を弔う複数の無縁墓が建てられていましたが、現在はその姿を消しています。
池田河原の合戦後、原田氏は糸島の大半を手中に収めて勢力を強めました。その後、大友氏が没落すると離反して糸島全土を制圧します。
しかし、大友氏の要請により出兵した太閤秀吉の大軍勢の前には降伏するしかなく、原田氏の所領は全て没収されてしまいます。その後、朝鮮出兵に従軍してお家再興を図る原田氏でしたが、逆に遅参を理由に原田家は取り潰されてしまいました。
糸島の豪族の栄枯盛衰の舞台となった平等寺。現在、隣は専徳寺という別のお寺になっています。
幼稚園の運営などもしているようで、境内には遊具が多数設置されていました。
寺領が広かったと記録のある平等寺なので、かつてはここも平等寺の一角だったのでしょう。