歴代きっての問題児・黒田の怪童忠之
初代長政の治世が終わり、いよいよ黒田騒動で有名な二代目・忠之の登場です。黒田家の歴史の中でも、後世には暗君として不名誉な伝わり方をしている殿様ですが、実際の治世はどうだったのでしょうか?
黒田騒動に関しては以前特集記事を書いているので、お時間ある方はそちらをご覧下さい。父・長政からは跡継ぎ失格の烙印を押され、廃嫡されそうな危機もありましたが、後ろ盾の栗山家の力でなんとか2代目に就任する事ができました。大藩の世継ぎとして大切に育てられた事が災いして、性格は非常に我儘で粗暴、家臣達からの評判もあまりよくありませんでした。なんか上の肖像画も、描き方に悪意がありますよね。
人材登用と藩政改革
黒田家は初代長政までは、家臣団の意見も頻繁に取り入れられる、ある種合議制のような形で藩政を行っていましたが、忠之はこの仕組みが気に入らなかったようです。黒田藩の宿老達は、それぞれが1万石以上を拝領していて、石高に比例して藩政に対する発言力もありました。
忠之は着任するやこれら宿老達の発言力を抑え、自分の思い描く政治をやりやすいように、周辺に身分の低い若手を取り立てて配置していきます。如水・長政の頃に重用されていた家臣やその子孫達は遠ざけて、隙あらば家を取り潰して禄を召し上げたりもしました。
例えば幽閉されていた官兵衛を救出した井上之房の井上家も、黒崎城と1万6千石を拝領する名門でしたが、黒田騒動を起こした栗山家と縁戚という事で追放されています。
他にも様々な理由で播州以来の旧臣達を遠ざけたり追放しました。結果として、慢性的に財政を圧迫していた宿老達の石高が浮き、中央集権化に成功しています。角度を変えると名君のようにもみえる不思議な殿様ですね。
忠之と宗教
忠之は黒田騒動が起きた際に、幕府の判決がでるまで、黒田家が改易にならないようにあらゆる神仏に祈願しました。結果として改易は免れた為、信仰心が強くなったのか、領内に多くの寺社仏閣を建立しています。
幕府へのご機嫌取りの為か、荒戸山へ東照宮を勧請。そして自身が埋葬された博多駅前の東長寺、姪浜に愛宕神社、糸島に櫻井神社など、現在も残る数々の寺社仏閣に関わっています。これらの建築にかかる費用は膨大で、藩の財政を大きく圧迫します。
特に現在の糸島市桜井に住んでいた、神の神託を受けたと評判の巫女・浦姫様に傾倒しました。自ら糸島へ赴いて相談するほどで、 「 しるへにや 雀の千声 鶴の一声 」と浦姫様を称える和歌まで残しています。家臣千人に相談するよりも、浦姫一人に相談した方が良いという意味だそうです。孤独な独裁者の拠り所だったのでしょう。
島原の乱と長崎警備御番
黒田騒動から四年後、長崎で島原の乱が発生します。幕府の招集により佐賀・久留米・柳川・島原の連合軍で原城を攻めますが、総大将が討ち死にして失敗。第二陣は九州全土の大名に招集がかかり、福岡藩も一万八千の軍勢で参加しました。
幕府は黒田家が提案した兵糧攻めの策を採用。その後、十分に弱った頃合いで総攻撃をかけ、城内にいた老若男女を皆殺しにします。そして島原の乱が契機となり、キリスト教を締め出して日本は鎖国体制に入りました。
その後、幕府から福岡藩と佐賀藩に交代で長崎警備御番が命じられます。参勤交代が免除になる、非常に名誉あるお役目でした。藩主自らが年に2回長崎に出向くこのお役目は、幕末まで続きました。こちらも派兵には相当な出費が必要で、藩の財政を圧迫する一因になっています。
室見川の白魚漁
福岡の郷土料理で、室見川流域の料亭で現在も味わう事のできる白魚料理。この白魚ですが、実は忠之が上方から白魚を取り寄せて、領内の各川に放流したのがはじまりだと言われています。残念ながら、現在は室見川以外の川では、汚染により絶滅してしまいました。
室見川では江戸時代から白魚漁の為の小屋を建て、漁業権を下級藩士に与えて副業させました。忠之は下級藩士や自分を慕う部下には良い殿様だったようで、亡くなった後は殉死者が6名も出ています。ワンマンで親分肌の殿様といった感じでしょうか。
忠之の治世は血生臭い戦国時代から太平の世に移り変わる時期で、黒田家の政治体制も大きく変化しました。次回は名君の呼び名が高い光之の治世をみていきましょう(つづく)