黒田家と福博の町の関わりを紐解くというテーマでお送りしています、前回の記事はこちらからどうぞ。忠之公の治世で大きな変革を迎えた黒田家。次は名君の呼び声高い・3代藩主・光之公です。
三代目 黒田光之
光之は正室との間にできた子ではなく、早良へ鷹狩に出た際に見初めた、素浪人の娘に産ませた子です。ある日突然、見知らぬ女を忠之が連れ帰ったので、家臣達は驚いたでしょうね。
お城には徳川家から嫁いだ正室がいたので、結局母の実家がある橋本村で光之は生まれました。現在の橋本八幡宮の境内の北側に黒田家の別荘茶屋があり、光之はここで幼少期を過ごしました。
そして光之の誕生から二月後に、忠之の正室が亡くなっています。もしかしたら本当に病死しただけかもしれませんが、タイミングが良すぎて怪しいですね。真相は闇の中です。
武断政治から文治政治へ
黒田家だけではなく、日本全体が武断政治から文治政治へと転換する時期でした。光之は父の代で大きく傾いた藩の財政を立て直すべく、倹約令を発令。藩政を担っていた人材を大幅に入れ替え、内政に秀でた人材を積極的に登用しました。
文治を好む光之の影響で、家臣から多くの文化人がでています。まずは家老職に登用された立花実山です。茶人として、千利休と高弟・南坊宗啓の茶道の秘書『南方録』を書写して、まとめ上げた事で知られ、その後に茶道・南坊流(立花流)を開きました。
続いて東洋のアリストテレスとシーボルトに絶賛された貝原益軒です。貝原先生に関しては特集記事を上げているので、詳しくはこちらをご覧下さい。この他、「農業全書」を記した宮崎安貞などがいました。
荒戸港の整備
荒戸の船着き場を整備して、西日本有数の良港に発展させました。また、周辺の防波堤と灯台を整備し、福岡藩における海運力の強化に努めています。海沿いの町である地の利を活かして、貿易で藩の財政を潤そうとしたんですね。
結果として、博多商人達を通して貿易が盛んにおこなわれるようになりましたが、莫大な流通を生み出すと共に悲劇的な事件も起こっています。
伊藤小左衛門の密貿易
寛文七年に対馬で時化にあい、緊急避難した貿易船から輸出入が禁止されていた武具が大量にみつかりました。船の持ち主は黒田藩の御用商人・伊藤小左衛門。この一件が発覚すると、幕府により一族郎党150名が捕縛されました。
小左衛門は磔刑となり、40数人の者が死刑、百数十人が小呂島、姫島への流罪。小左衛門の子供で幼い2人の男児も斬首されました。この悲劇を哀れんだ人々によって、現在屋敷のあった場所には萬四郎神社が建てられています。
福岡藩は密貿易を黙認(もしくは共謀)していたようですが、長崎警備御番という立場があり、事件発覚後に幕吏から小左衛門を庇う事ができませんでした。光之は終生、伊藤一族を守れなかったことを悔やんでいたそうです。
第二の黒田騒動
光之の長男・綱之は、黒田家四代目の後継ぎとして期待されていました。しかし、性格は奔放で江戸で修業中に度々酒宴を催しては、他の大名子息と大騒ぎするなど、幕閣内での評判は非常に悪く、その悪評が父・光之の耳にも届いてしまいます。
教育係を通して矯正を試みますが治らず、結局福岡へ呼び戻し、髪を剃り上げて屋形原で蟄居を命じています。跡継ぎには次男で直方藩を継ぐ予定だった、長寛(後の綱政)を呼び戻して継がせました。この廃嫡には立花実山をはじめとする重臣達の反対もあり、藩内が割れた事から第二の黒田騒動とも言われました。
蟄居させられた綱之は約三十年におよぶ幽閉生活の後、不遇の一生を終えました。この後、黒田家は跡取りが相次いで亡くなっており、血統が途絶えてしまいました。福岡の人々は綱之のたたりだと恐れ、綱之を幹亮権現として祀ることでたたりを鎮めようとしました。
西新へ八幡宮を遷座
光之は産土神の八幡宮を西新町へ遷座させています。今の西新パレスがある辺りですね。これが現在高取にある紅葉八幡宮です。現在の橋本八幡宮は、明治期に住民の希望で建て直されたものです。
光之は黒田騒動が起きた際に、産土神の八幡宮へ騒動の収束を願い、聞き届けられたら必ず荘厳な社殿を建立して守護神として終生崇める事を誓いました。その為、藩主になると百道松原に3万2千坪の土地と社領百石を寄進して、新しい社殿を建立します。その後、西新は門前町として発展を続け、現在に至ります。
小石原焼
朝倉郡東峰村で焼かれている小石原焼は、光之が伊万里から陶工を招いて窯場を開いたのがはじまりです。その後、近くにあった高取焼と交流を深めて発展し、現在のような陶器が作られるようになりました。
ちなみに、大分県日田市の小鹿田村に伝わる小鹿田焼は、江戸時代中期に小石原焼の陶工・柳瀬三右衛門が伝えたもので、小石原焼と小鹿田焼は兄弟窯の関係になります。
光之は二十七歳で藩主の座についてから、六十一歳で引退するまでの長期にわたって福岡藩の改革を行い、その後の藩政の基礎を築きました。幕府からも信頼されて、朝鮮通信使の応接役など名誉ある役職にもついています。引退後もその影響力は強く、結果として息子との対立を招いてしまいました。次回は息子・綱政の治世をみてみましょう。