黒田家と福博の町の関わりを紐解くというテーマでお送りしています、前回の記事はこちらからどうぞ。さて、長期政権だった光之の時代が終わり、4代目藩主・綱政の時代が幕を開きました。
四代目 黒田綱政
しかし長期政権の弊害か、綱政が藩主の座につくと、藩政の中枢には前藩主・光之の側近達が要職を占めています。隠居した光之の影響力が強く、綱政にとっては非常にやりずらい状態ですね。
光之との対立と暗殺
そこで、まずは光之時代の側近達を次々と罷免、または閑職へ追い込み、自ら発掘した人材を要職へ配置していきました。当然ですが前藩主の光之は怒り、親子の対立が生じます。光之は長男を廃嫡して、支藩から呼び戻してまで藩主にしてあげたのに裏切られた形です。自分の治世になると、側近を全て入れ替えるのは2代目の忠之から続く黒田家の伝統芸ですね。
光之の右腕だった立花実山は、隠居付き頭取として三千石を拝領し、依然として藩内にも影響力がありました。しかし、光之が亡くなるとすぐに綱政の命により嘉麻郡鯰田村に幽閉。そして軽率達にひっそりと暗殺されました。全国的にも名の通った文化人の悲惨な末路です。
そして、ほぼ同時期に幽閉生活を解かれた兄の綱之も亡くなっています。あまりにタイミング良く亡くなった為、綱政による毒殺が噂されました。現在も深層は闇の中です。
背振山の国境争い
綱政の時代に、お隣佐賀藩との国境争いがおきています。元々、関ケ原の戦いで煮え切らない態度を取ってしまった龍造寺(鍋島)家は、お家断絶の危機に陥りますが、それを黒田家がとりなして許してもらった過去があります。それ以来、佐賀(肥前)藩と福岡藩は非常に仲がよく、福岡城築城の際には南側の堀工事を佐賀藩が担当するほどの間柄でした。
ところが、そんな両家の仲に亀裂が入る出来事が起こります。福岡藩領の農民達が、背振山の山頂付近に畑を開墾しようとしました。佐賀藩側の農民達は当然反発して藩に訴え出ます。そして福岡・佐賀双方の代表者で話し合いになりました。しかし、決着がつかず、結局幕府に裁定してもらう事になります。
結果は佐賀藩の勝利。決め手は、佐賀藩の古地図には背振山頂の様子が詳細に明記されているのに、福岡藩の古地図には載っていない為でした。この敗訴を福岡の人達は大変悔しがり「佐賀のもんが通った後は草も生えん」と悪口を言って留飲を下げました。この感情は今も残っているようで、福岡では「佐賀人=ケチ」と幼い頃から刷り込まれます。
この勝訴を喜んだ肥前藩主・鍋島綱茂は、事のあらましを記した棟木を山頂の弁財天に奉納して後世にまで伝えました。これもなかなかの煽り行為ですね(笑)
藩札発行と塩田開発
綱政は藩の財政難を正常化する為、様々な施策を打ちました。まず、幕府に許可をもらって初めて藩札を発行しています。なかなか思い切った政策でしたが、度重なる藩札の発行で領内にインフレを発生させてしまい、失敗におわりました。この時に巻き込まれて破産した博多商人が多数出ています。
また、塩の専売をはじめ「御国中塩御徳用仕組」を始動。裏糟屋郡奈多浜に30町の塩田を開発して、こちらは大成功をおさめ、大量の雇用と安定した利益を藩にもたらしました。
福岡藩御用絵師・狩野昌運
父親の影響か、綱政もかなりの文化人で、特に絵画にのめりこみました。狩野派の宗家から狩野昌運を福岡藩御用絵師として招き、綱政の下で数々の名画を生み出しています。
火縄銃をかまえる観音様など、一風変わったユニークな作品が多数あります。狩野昌運は現代でもファンが多く、企画展示などが催される事も珍しくありません。
ミイラになった殿様
昭和25年、崇福寺の一部が宅地化された際に綱政の墳墓を改葬していると、中から保存状態の良いミイラが発見されました。筋肉は硬直しておらず、束髪やまつ毛、口髭はそのままで、発見当時は各新聞社がミイラの写真まで掲載しています。
綱政は53歳で亡くなりました。ミイラ化させた理由については現在も分かっておらず、一説にはお家騒動になるのを恐れた藩の重鎮達が、藩医に命じて防腐処理を施し、しばらく死を隠した為だとも言われています。
次回は5代宣政・6代継高の治世を一気にみてみましょう。