十代目 黒田斉清
黒田家と福博の町の関わりを紐解くというテーマでお送りしています、前回の記事はこちらからどうぞ。一橋家から養子に入った斉隆は、なんと19歳の若さで急逝してしまいました。慌てた黒田家は、生まれたばかりの赤ん坊を跡継ぎとして幕府に届けます。
0歳で相続はなかなか強引な話ですが、亡くなった斉隆は現将軍の実弟。可愛がっていた弟の一粒種になる甥が相続するのだから、幕府もかなり特例的に認めてくれたのでしょうね。こうして誕生したのが、十代目・黒田斉清(なりきよ)です。
一説には、実は斉隆の本当の子供は女の子で、秋月藩の三男坊と差し替えたという話があります。真実かどうかは分かりませんが、斉隆の死は二カ月間伏せられていた事から、家中は相当に慌てたのでしょう。
本草学者・斉清
斉清が成年するまで、藩政は家老達による合議制で行われました。幼い斉清は学問に熱中し、とりわけ本草学を好み、博識藩主として名が知られていました。
幼少期から鷹・隼・アヒルなどを飼育して生態を調べ、鳥類好きは大人になっても変わりませんでした。また、植物学にも精通し、自ら植物採集を行って熱心に研究しています。
フェートン号事件
斉清の在位に、長崎にオランダ船を追いかけてイギリス船がやってくるフェートン号事件が起こりました。福岡藩は佐賀藩と一年交代で長崎警備御番という役目を担っています。幸いフェートン号が来日した際、警備担当は佐賀藩でしたが、なんと経費削減のために十分の一しか兵士が配置されておらず、人質と引き換えに水や食料の補給をさせられる国辱を受けました。
結果として、担当した長崎奉行が自刃、佐賀藩の家老も複数人が責任を取って切腹しました。また、藩主の鍋島斉直も100日間の閉門を命じられるなど非常に厳しい措置が下ります。その後、長崎は厳戒態勢がとられる事になり、福岡藩も例年以上の負担を強いられるようになります。
シーボルトとの交流
長崎警備御番を福岡藩が担当していた事もあり、斉清は度々長崎へ出入りしています。特にオランダ商館の医者であり、博物学者でもあったシーボルトとは懇意でした。シーボルトは斉清の博識に驚き、なぜ藩主でありながらそこまで勉強しているのか尋ねたそうです。
ちなみに斉清とシーボルトの対談の様子は、福岡藩士により「下問雑戴」という本にまとめられています。斉清はシーボルトに参勤交代の途中で自ら採集した植物標本を贈り、この標本は現在もオランダの国立ハーバリウムに保管されています。
黒田二十四騎図の作成
斉清の治世は、度重なる災害による不作・凶作によって、領民だけでなく家臣も経済的に困窮した時代でした。そこで黒田家の草創期を支えた黒田二十四騎の伝記を編纂し、過去の巻物を元に二十四騎図をリメイク、家臣の系譜調査などを行うことにより、家中の再結束を図りました。
財政改革と藩札発行
斉清は持病の眼病が進行して、ほぼ失明に近い状態になってしまった為、幕府に届けて隠居を表明しました。そして、困窮する藩の財政を立て直すべく、最後の仕事として財政改革を行っています。財政改革の意見書公募を行い、眼医者の白水養禎が提出した「御家中并郡町浦御救仕組(ごかちゅうならびにこおりまちうらおすくいしくみ)」が採用されます。
大量の切手と呼ばれる藩札を発行して、流通を活性化させて景気の上昇を狙う仕組みでした。七代目市川團十郎を招聘して、歌舞伎を半年にわたり興行、人形浄瑠璃、相撲、富くじなどを立て続けに催して、一時的なバブル景気に城下は活気づきます。この賑わいで誕生したおどりが博多をどりの起源といわれています。
しかし、切手を大量発行しすぎて価値が暴落してしまい、バブルは弾けてしまいます。白水養禎は禄を召し上げられ、実家の内野村で逼塞を命じられます。その後、よせばいいのに再び藩に意見書を提出してしまい、上層部の逆鱗に触れて玄海島へ島流しになりました。
次回は薩摩島津家から黒田家へ養子に入った、十一代目・黒田長溥の治世をみてみましょう。養父同様に蘭癖大名として有名な長溥は、激動の幕末期をどのように治めたのでしょうか(つづく)