十一代目 黒田長溥
黒田家と福博の町の関わりを紐解くというテーマでお送りしています、前回の記事はこちらからどうぞ。失明により隠居した義父・斉清に代わって登場したのが、島津家出身の十一代目黒田長溥です。実父も義父も蘭癖が有名で、当然のように長溥も蘭癖大名に育ちました。
長溥は十二歳で島津家から黒田家に養子として入っています。実姉は将軍・徳川家斉公の正室だったので、将軍の義理の弟という事ですね。幕府・薩長どちらとも非常に近い間柄だった事が、幕末の福岡藩の行動に影響してきます。
そして二十四歳の時に先代の斉清から家督を譲り受けます。しかし前回書いた通り、福岡藩は藩札発行による経済政策の失敗により、藩の財政は破綻寸前の状況でした。マイナスからのスタートで可哀想ですね。
父親ゆずりの蘭癖
二人の父親はどちらも屈指の蘭癖大名で、幼い頃から異国の文化に触れてきた長溥もまた、同じ道を辿る事になります。福岡藩は長崎警備御番という役目柄、長崎に出入りする機会が多かったのも影響しました。先代の斉清と一緒に、シーボルトと対談した記録などが残っています。
藩士達の西洋技術の習得も積極的に後押しして、現在の中洲に精練所と反射炉を建設しました。蒸気機関の製作にも取り組んだ他、医術学校の創設や種痘の実施も領内で行っています。領内での金鉱・炭鉱開発にも取り組みましたが、上手く行きませんでした。これらの蘭癖は、ただでさえ破綻寸前の財政をさらに圧迫して、保守派家臣の反感を買います。
お由羅騒動
家督相続後からしばらくすると、実家の島津家で、島津斉興の継嗣をめぐって分裂するお家騒動が発生します。島津斉興は長溥からみると年上の甥にあたります。斉興は長子の斉彬と折り合いが悪く、側室・お由羅の子・久光を跡継ぎにしようとした為に、家中が斉彬派と久光派で割れてしまいました。
島津斉彬と歳が違く、兄弟のように仲の良かった長溥は、斉彬を薩摩藩主の座に就ける為に、老中・阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平慶永などに働きかけを行います。結果として、斉興を引退させて斉彬に跡目相続させる事に成功。騒動は収まりました。
ペリー来航と幕府への建白書
長崎警備御番を担当していた福岡藩には、ペリー来航が事前に通達されました。それを受け、長溥は外交に関する建白書を幕府に提出しています。内容は幕府の海軍力の低さを批判するもので、早急な海軍創設と積極的な外交政策を促すものでした。残念ながら建白書は黙殺されましたが、大名の立場で幕府を堂々と批判しているのは驚きですね。
一度は黙殺した建白書でしたが、幕府内はペリーの再来航に浮足立ち、長溥に意見を求めています。海軍を創設し、開国して富国強兵に努める事。また、アジアを侵略しているフランス・イギリスに対抗する為に、アメリカやロシアと同盟する事などを提案しています。
寺田屋事件と大蔵谷回駕
ペリー来航後に開国した大老の井伊直弼は、安政の大獄で尊皇攘夷派を弾圧しますが、その後桜田門外の変で凶刃に倒れます。世の中が佐幕か尊皇かで揺れている時に、京都で寺田屋事件が起こります。千人の兵を率いて上洛した薩摩藩主・島津久光を担ぎ上げ、倒幕運動を図った過激派の薩摩藩士達が、逆に久光の命令により上意討ちにあってしまった事件でした。
同時期に、江戸へ参勤中だった長溥の行列が、現在の明石市大蔵谷へさしかかったところで、薩摩の使者を名乗る二人の侍が割り込んできました。一人は福岡藩を脱藩した平野国臣、そして薩摩藩士の伊牟田尚平でした。開国派で幕府寄りの立場をとる長溥と久光を会わせたくない二人は、京都の政情が非常に不穏である為、引き返す事を進言します。
斉溥は驚いて、急病と称してただちに国元に引き返しました。身分の低い二人が、大藩の大名を足止めして引き返させた事件で大蔵谷回駕(おおくらだにかいが)と呼ばれています。しかし、実は斉溥は二人の思惑に気付きながらも、実際に政情が不安定だった為に引き返しただけでした。福岡まで二人に同行するように伝え、下関から福岡へ向かう船の上で、過激な活動を理由に捕縛してしまいます。
長州征伐と七卿落ち
ペリー来航に端を発した混乱はエスカレートし、京都の治安は佐幕派と尊皇派の争いで乱れました。幕府は尊皇派の中心的存在を担う長州藩を、京都から追い出して鎮静化を図りますが、志士達が暴発して禁門の変(蛤御門の変)が勃発しました。長州は敗れて国元に敗走しますが、幕府はこの機会にトドメを刺すべく、長州征伐に兵を派遣します。
斉溥は国内の争いで国力を落とすべきではないとの考えで、長州に対して温情的な措置を幕府に求めました。薩摩藩と連携して、家老の加藤司書と薩摩からは西郷吉之助を派遣して交渉します。交渉は成功し、長州藩の家老三名を切腹の上で恭順、過激派公卿七名を筑前預かりとする事で落ち着きました。
公卿達は筑前の太宰府へ送られ、幽閉される事になります。世に言う七卿落ちです。一人は病没、一人は脱出したので実際には5人でしたが、太宰府までの世話役は加藤司書が勤めました。
乙丑の獄と勤王派弾圧
斉溥が目指していたのは尊皇佐幕、公武合体論とも言われます。幕府は朝廷と協力して国を改革しながら、富国強兵を進めていくというものでした。しかし、加藤司書をはじめとする筑前勤王党のメンバーは過激な尊皇倒幕論者達で、次第に活動がエスカレートしていきます。
斉溥は暴発しようとする勤王党をなんとか抑えていましたが、博多の豪商を襲って資金を調達したり、佐幕派の家臣を暗殺するなど、行動が一線を越えはじめます。長溥を犬鳴山の別館に幽閉して、長知を擁立して藩の実権を握る計画lが露呈すると、堪忍袋の緒が切れました。筑前勤王党の関係者140名を逮捕し、主要メンバーを切腹や斬首、関係者を遠島や蟄居にする大弾圧に踏み切ります。
この弾圧が行われた年が慶應元年で、乙丑の年だった為に乙丑の獄と呼ばれています。この弾圧により福岡藩は多くの人材を失い、また明治維新後には、勤王党を弾圧した事実で苦しい立場に追い込まれる事になりました。
その後、斉溥は明治2年に隠居し、家督を養子の長知へ譲ります。版籍奉還で全国から藩というものがなくなる4カ月前の事でした。次回は筑前黒田家で最後の殿様となった長知の治世を辿ってみましょう。(つづく)