十二代目 黒田長知
黒田家と福博の町の関わりを紐解くというテーマでお送りしています、前回の記事はこちらからどうぞ。いよいよ、黒田藩最後の殿様である十二代目 黒田長知(ながとも)の登場です。長知は伊勢の藤堂家から9歳の時に養子縁組で黒田家に入りました。明治2年に斉溥から家督を継ぎましたが、わずか4カ月で版籍奉還により、黒田家は領地と人民を朝廷に返上しました。
その後、旧藩主274名はそのまま知藩事へ就任します。知藩事は県令の前身の役職ですね。中央政府から統治を命じられた立場で、土地や人民は朝廷のものになります。その後、廃藩置県により藩は廃止されて、府県制に移っていきます。
太政官札贋造事件
享保の大飢饉以来の慢性的な財政難に加え、戊辰戦争の戦費が重くのしかかり、藩の財政は破綻寸前でした。通商を担当する藩士が太政官札の贋造を思いつき、上役達に相談します。はじめはとんでもないと反対していた上層部も他に方法がなく、遂に長知には知らせずに贋札造りに手を出してしまいました。
贋札は城内二の丸高櫓で造られ、久留米・熊本・長崎などで米の買い付けなどに使われました。その後、次第に大胆に使われるようになり、全国各地での買い付けにも利用しますが、出来の悪い贋札はすぐに新政府に露見します。新政府は渡邊昇を九州辺贋札取締御用に任命して、密偵を福岡に潜入させて証拠を抑えます。
渡邊昇は証拠が揃うと、藩庁・通商局・銀会所に踏み込んで、贋札と印刷機を押収、関わった者27名を逮捕しました。知らせを聞いた長知は大慌てで釈明に向かいましたが、取り合われずに護送されます。
弾正台から下った判決
藩知事・黒田長知は免職・閉門。藩の幹部5名が斬罪。その他の関係者は、遠島・禁固が42名、懲役・罰金刑が50余名という処分が下りました。この直後に廃藩置県が実行され、黒田家は東京移住を命じられます。これにより、藩祖長政から続く黒田家による筑前支配は終わりを迎えました。
岩倉使節団と海外留学
東京の赤坂にあった中屋敷へ移住したのも束の間、長知は三ヵ月後には岩倉使節団の海外留学生として欧州・米国に留学する事になりました。元藩士の金子堅太郎や團琢磨らを従者として、世界を周って見聞を広めます。その後、アメリカへ渡りハーバード大学を卒業しました。
この時、長知と一緒に黒田家が費用を負担して留学させた学生たちから、様々な人材が生まれています。大日本帝国憲法起草した金子堅太郎、三井三池炭鉱の経営を成功させて三井財閥の総帥になった團琢磨、欧米列強との不平等条約の改正に奔走した栗野慎一郎など、明治・大正期に日本の中心で活躍する人材が育ちました。
その後の黒田家
その後、長知は家督を継いで10年にも満たないうちに隠居して、文化人として過ごすようになります。著名な書道家の門人なって数々の書を残し、また、能楽の保護に力を入れて多くの能楽師達を援助しました。
黒田家の別邸には、私財で「黒田尋常小学校」を設立しました。残念ながら空襲で被災して廃校になり、跡地には、文京区の福祉センター(上画像)が建設されています。
おわりに
黒田家と福岡の歴史を10回に渡りお送りしました。日本でも有数の歴史ある博多の町に、黒田家が為政者として乗り込んで様々な事がありました。古参の博多商人や領民たちからすれば、博多の町や港を整備してくれた恩もある反面、権力を背景に無理難題を押し付けられた、負の歴史も多く感じました。
福岡県内に黒田の殿様の立像がなく、家臣の方が人気が高いのはその辺に理由があるのかもしれませんね。明治維新の船に乗り遅れ、勝ち組になれなかった事も大きいです。また真偽の程はわかりませんが、幕末に起きた乙丑の獄の被害者の子孫が、福岡の政財界に多く、いまだに黒田家を嫌っているという話も耳にしました。
福岡で郷土史ブログを続ける以上、避けては通れない歴史なので、引き続き研究を続けたいと思います。