――知らなかった場所を訪ねて
これまで、玄海航空基地の存在をまったく知りませんでした。友人からその名を教えてもらい、気になって調べてみたところ、糸島市の志摩歴史資料館で基地について紹介していると知りました。それを知った途端、居てもいられず、現地を訪れてみることにしました。

まず向かったのは志摩歴史資料館です。事前の情報どおり、館内では企画展として玄海航空基地が取り上げられていました。かなりタイムリーな展示で、正直なところ、少し運が良かったと感じました。

展示室には、玄海航空基地の概要や当時の状況を説明するパネルが並んでいます。玄界灘に面した湾と集落を利用して構成された、水上機の基地であったことが、順を追って紹介されていました。
室内に入り、まず目を通したのは、企画展のあいさつ文でした。戦後80年が近づき、体験として戦争を語れる人が少なくなり、あの戦争が歴史の一ページとなっていくのは、ある意味では避けられない――そんな現実を静かに受け止めた文章です。

「決して忘れてはならない」と強く訴えるのではなく、それでも当時の人々の犠牲や、戦後の復興の努力の上に、いまの生活があるのだから、知ることには意味がある。そうした姿勢が、押しつけがましくなく伝わってきました。
展示は、戦争の悲惨さだけに焦点を当てたものではありませんでした。当時の人々がどのように日々を過ごし、楽しもうとしていたのか。兵隊と地域の人々とのふれあい、さらには勇ましい戦いのエピソードについても、淡々と説明されています。一面的ではなく、全体を見渡そうとする、フェアな立場からの展示だと感じました。

ひととおり展示を見終えたあと、基地本部が置かれていたとされる船越を訪ねました。この時期の船越は、カキ小屋で賑わう場所として知られています。観光客の往来が続くその一角に、玄海航空基地の記念碑は静かに建っていました。

案内板には、基地の全体像が示されています。引津湾、船越湾、加布里湾といった入り組んだ湾と、その周囲の集落を含めて構成されたのが玄海航空基地でした。滑走路や大きな施設が並ぶ、一般的な基地のイメージとは異なり、海と地域の生活空間をそのまま利用したものだったことが分かります。

船越には水上爆撃機「瑞雲」が、新町には零式水上偵察機が配備されていたと説明されています。パネルには機体図とともに、速度や航続距離、武装などの諸元も記されていました。

玄海航空基地が実際に運用された期間は、終戦直前の約1か月間にすぎなかったそうです。しかも基地は、地域の土地や民家、寺院などを利用して構築されたため、格納庫や兵舎といった遺構は、いまではほとんど残っていません。地元の人でも、この基地の存在を知らない人が多いのは、そのためなのかもしれません。
玄海航空基地は、遺構がほとんど残らないまま終戦を迎えました。そのため、この基地は「忘れられた」というよりも、日々の風景の中で「気づかれにくい」存在になっているように思えます。記録をたどり、現地を訪ね、断片を言葉にしていく。そうした一つ一つの積み重ねが、いまを生きる私たちにできる、ささやかな関わり方なのだと感じました。