近代日本司法制度の父
佐賀県に来たので、佐賀の七賢人の一人で近代日本の司法制度の礎を築いたといわれる、江藤新平の生誕地へ寄ってみました。

生誕地からほど近い場所に、旧長崎街道に架かる「高橋(扇町橋)」が残っていました。ここは佐賀城下の西の端にあたる地域なんですね。

この橋が長崎街道であることと、橋にかんする詳細な説明が書かれた案内板がありました。

他にも恵比寿様の石像がありました。実は佐賀城下は日本一の恵比寿の街として知られています。理由は諸説あるのですが、いくつか紹介すると
・鍋島公が兵庫県の西宮神社から恵比須像を譲り受けて、それを祀ったら住民が真似をして広がった
・佐賀城下は水路が多く、海運業者が多数出入りしていた為、商売繁盛と海上安全のご利益がある恵比寿信仰が広がった
・佐賀城下に石工が多く、恵比寿像を作って腕を競った為、自然と広がった
・長崎街道沿いで商家が多かったため、商売繁盛のご利益がある恵比寿様が広がった
他にも色々とあるのですが、とにかく数が多く、現在840体以上でさらに増えているのだそうです。

話を長崎街道に戻します、こちらの橋は少し橋桁が高く作られているため、扇町橋の他にも高橋とも呼ばれました。船の帆柱が、橋に当たらないように配慮されているそうです。

かつてはこの橋を、長崎を目指す多くの旅人が行き来していました。佐賀を抜ければ、長崎はすぐそこです。この長崎との距離感も、江藤新平に大きな影響を与えたようです。

佐賀平野は水路が多く、入り組んでいます。城下町を守る堀の役目の他にも、運搬や移動などにも利用されました。

人口の水路が多いので、水の流れは非常におだやかです。新平も少年時代はこの辺の水路で遊んだのでしょうか。

それでは生誕地に向かいましょう、長崎街道を高橋から東へ進みます。
江藤新平生誕地
高橋を渡って進むとすぐに、江藤新平生誕地の案内がでていました。

ここから長崎街道を外れて北の路地に入ります。

しばらく閑静な住宅街を進むとありました!ごく普通の一軒家ですが、江藤新平生誕地の看板が立っています。

江藤新平は1834年(天保5年)、佐賀城下の下級武士の家に生まれました。決して裕福とはいえない家庭環境の中で育ったといわており、こちらの生家も城下の西端ギリギリの場所にあります。一般的に身分が高い地位にあるほど、お城のある中心に近い場所に居住しています。

ただ当時の佐賀藩は、九州でも有数の学問と技術の先進藩でした。藩校である弘道館では儒学だけでなく、西洋の科学や兵学なども研究されており、幕末期には日本でも屈指の近代化を進めた藩として知られています。

下級武士という立場から藩内での出世は簡単ではなく、若い頃の江藤は鬱屈した思いを抱えながら学問に打ち込んでいたと伝えられています。やがて国学や尊王思想の影響も受け、幕府体制に対する批判的な考えを強めていくようになりました。

京都へ脱藩して桂小五郎をはじめとする、尊王攘夷運動を展開していた他藩の志士達と交流を持ちます。三ヵ月後に帰藩すると永蟄居の処分が下され、禄を失ってしまいます。その後、大政奉還が実行されると永蟄居が解かれ、藩政に復帰しました。

王政復古の大号令の後に勃発した鳥羽伏見の戦いでは、新政府軍として参戦。東征大総督府軍監に任命され、西郷隆盛や海江田信義と共に江戸城開城にも立ち会っています。明治維新後は、薩長主体の討幕派諸藩士の中で頭角を現し、明治新政府で存在感を放っていくのでした。

新平の足跡は、佐賀市内にもいくつか残っているので、他の場所も訪れながら生涯を辿りたいと思います。帰り道、長崎街道に戻るとまた恵比寿様がいらっしゃいました。

本当に佐賀城下は恵比寿様が多い、逆に他の地域に多い、お地蔵様とか庚申様はあまりみかけませんね。

八戸窯恵比寿様というお名前だそうです、名前が個別についている恵比寿様もいらっしゃるのですね。

長崎街道です、佐賀市内の長崎街道はかなり当時の雰囲気が残っていますね。

街道沿いは一部、のこぎりの刃のようにわざとギザギザとした形で家が建てられている地域があります。理由は敵が攻めて来たときに隠れて不意を突いて攻撃をするためだとか、荷車を置くためのものだとか諸説あります。