西の五代、東の渋沢
新一万円札に描かれる渋沢栄一と並び称された実業家、五代友厚をご存知でしょうか。維新後の社会の激変によって疲弊していた大阪経済の立て直しに奔走し、大阪の恩人と呼ばれました。
朝の連続テレビ小説「あさが来た」で、ディーン・フジオカが演じて一躍有名となり、さらにあまりの女性人気から“五代ロス” なる言葉まで生み出しました。
また、大河ドラマ「青天を衝け」ではまさに、主人公・渋沢栄一のライバルとして描かれ、同じくディーン・フジオカが演じて話題を呼びました。
五代友厚は薩摩藩出身で、長崎海軍伝習所で航海、砲術、測量、数学などを学びました。同期には勝海舟など層々たる顔ぶれがいます。また、勝に頼まれて長崎で活動する坂本龍馬にグラバーを紹介したりもしています。
五代友厚 と大阪
さて、明治維新後に欧州留学で語学が堪能な事から、明治元年外国事務局判事として大阪在勤となりました。これが大阪との接点になります。
さらに大阪府判事も兼任し、大阪港の浚渫工事などインフラ整備に尽力します。その結果、貿易・経済の力が集まりはじめ、瓦解していた大阪にようやく復興の兆しが見え始めました。
インフラ整備は中之島を中心に進められ、現在も中之島地区周辺には、五代の功績を示す様々な石碑や説明版が点在しています。
転勤命令と下野
明治政府は五代の手腕を高く評価しました。その結果、会計官権判事への異動と横浜転勤を命じます。しかし、この転勤について大阪の官民あげての一大反対運動が起こりました。
五代の部下たちの外国事務局員一同が留任嘆願書を提出したそうです。これらの騒動を受け、五代は下野して民間から大阪を改革する決意を固めます。
薩摩の中でも特に大久保は盟友といえる間柄で、民間人になってからも度々相談に乗っています。政府内で孤立してしまった大久保を助ける為、大阪会議を設けて板垣退助や木戸孝允と和解させたりもしました。
しかし、下野した後も薩摩閥との強い繋がりがあった為、黒田清隆と開拓使官有物払下げ事件など政争にも巻き込まれましたが、薩摩閥のブレーンとして活躍しました。
実は五代と大久保は当初、大阪に遷都する構想を計画していました。長州閥の長・木戸孝允も賛成していましたが、残念ながら公家の猛反対を受けて東京に決まったそうです。
大大阪時代へ
しかし、遷都計画とん挫後も五代は精力的に活動を続け、大阪発展の基礎を築き上げました。以下に五代が創立や制定に関わったものを列挙します。
- 大阪為替会社
- 大阪通商会社
- 大阪活版所
- 金銀分析所
- 造幣寮
- 弘成館(鉱山業)
- 朝陽館(国産藍)
- 堂島米会所
- 大阪商法会議所
- 為替手形約束手形条例
- 大阪証券取引所
- 大阪商業講習所(現大阪市立大学)
その結果、1920年代から1930年代にかけては、人口・面積・工業出荷額において東京を抜いて国内第一位となり、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれる規模にまで発展しました。
大阪証券取引所の前には、そんな五代友厚の功績を称え銅像が建てられています。