勤王倒幕派の隠れ家となった平尾山荘

京都で歌人たちと交流しながら半年ほど生活した望東尼は、諸藩の勤皇の志士達とも知り合ううちに、次第に勤王思想へ傾倒してゆきます。福岡へ戻った望東尼の元へは、京都の情勢を聞こうと筑前勤王党の面々が通い詰めるようになりました。月形洗蔵などは、居宅と望東尼の生家が距離的に10mほどしか離れていない為、元々顔なじみだったと考えるのが自然ですね。

現在も中央区平尾に残る平尾山荘は、世話好きな望東尼を慕って、次第に九州近辺の勤王家たちが集まるようになり、福岡における尊王攘夷運動の中心地になります。

現在はきちんと管理されており、資料室も併設されているので幕末ファンには必見のスポットですね。

園内には石碑や歌人の居宅跡らしく歌碑が沢山並んでいます。

色々書かれているのですが漢文の為読めません・・・

写真では分かりづらいですが、こちら側にも文字が彫ってありました。何かの記念碑ですかね?

こちらは生誕100年の記念碑。

特に来訪の多い、三か国の言語で説明書きがあります。郷土史ファンにはありがたいです、福岡市役所さんGJ!

園内マップ、色々な史跡が隠れていますよ。

小詞の石碑です。平野国臣中村恒次郎の短歌を刻んだとされる円形の石が納めてあります。望東尼は、他の志士たちに先んじて命を落とした二人の歌を石に刻み、庭に祀ろうとしましたが遠島なってしまい、家人が庭にうめました。 明治42年の庵の再建と共に有志により掘り出され祠に祀られています。

平野国臣とは歌人としての共通点もあり、親しく交流していたようです。

平尾山荘を有名にしたエピソードといえば、幕府による第一次長州征伐により、俗論党(佐幕派)に実権を握られた長州から落ち延びてきた、高杉晋作を匿った事でしょう。筑前勤王党から望東尼を紹介された高杉は、この山荘に身を潜めて10日ほど過ごしています。この時に培われた晋作との絆は、その後の望東尼の運命を大きく変える事になります。

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