黒田家と福博の町の関わりを紐解くというテーマでお送りしています、前回の記事はこちらからどうぞ。黒田家で最も長く藩政を行った継高は、四男十五女の子だくさんでしたが、男子を相次いで亡くしてお家存続の危機に陥りました。
七代目 黒田治之
そこへ幕府から徳川御三家の一橋家から、養子を貰うようにすすめられます。そうして誕生したのが、七代目黒田治之です。ここで如水・長政から続く血統が途絶えてしまう為、黒田家の女系の許嫁が用意されていましたが、早逝してしまいました。
家督を相続すると国内を巡見してまわるなど、意欲的に藩政に取り組み、領民にも慕われていました。家臣の教育にも力を入れており、亀井南冥を儒医として見出しています。
残念ながら跡継ぎの長男は早逝してしまい、治之自身も30歳で亡くなってしまいます。遺言として領内に学問所を設置するように言い残し、これが後の藩校設置に繋がりました。
八代目 黒田治高
急いで養子縁組を行ったのが讃岐の京極家で、八代目黒田治高(はるたか)が誕生します。黒田家とは宇多源氏佐々木流という同族の流れだった事が理由です。しかし家督相続後に在位僅か半年で早逝してしまいました。
九代目 黒田斉隆
慌てた黒田家は、先代の実家・一橋家から先代の甥にあたる雅之助を養子にもらいます。そして本来なら早すぎるのですが、なんと6歳の若さで家督を相続しました。実は兄が寛政の改革で有名な、11代将軍の徳川家斉公です。御三家出身であれば、慣例など無視してなんとでもなったようです。
斉隆は非常に病弱で、実兄の家斉は心配して専属の医者を幕府から派遣して同行させています。しかし、病弱な体質は治らず、結局19歳の若さで亡くなってしまいました。
東西学問所の設立
斉隆の功績といえば、なんといっても藩校の設立があがります。朱子学を主とした東学問所の修猷館と、徂徠学を教えた西学問所の甘棠館。藩士の子弟達はどちらかの藩校に通い学ぶことになりました。
ライバル関係として切磋琢磨していた両学問所でしたが、朱子学以外の学問が禁止されると、甘棠館は閉館。修猷館のみが残され、一時期なくなった時期はあったものの、現在でも西新の修猷館高校がその系譜を継いでいます。
黒田家の先祖供養
一橋家からの養子という負い目があったのか、斉隆は黒田家の先祖供養に熱心に取り組んでいます。まず、廃嫡になって祟りを起こしていると噂されていた綱之を祀る幹亮権現社を建立。如水の父・職隆の墓が姫路で発見されると、墓を整備して二百回忌の法要を行っています。
その他、長政を祭る黒崎大明神を再興したりと、立て続けに黒田家の先祖供養に取り組み、斉隆自身も亡くなると黒田家の墓所・崇福寺に葬られました。
七代目から九代目にかけて、福岡藩は養子縁組により幕府と急接近しました。将軍の実弟や甥が藩主の座に就くことになり、この関係性が幕末における福岡藩の立場に繋がっていくことになります。次回は博識大名として有名な赤ちゃん殿様・斉清公の治世をみてみましょう(つづく)