福岡城にも存在した幻の天守閣

福岡城内を巡っています。前回の記事はこちらからどうぞ。では、いよいよ天守台へ向かいます。

ご存知の方も多いと思いますが、福岡城には天守閣がありません。存在については諸説ありますが、近年古文書の記述などから、築城時には存在していたというのが、専門家の間での通説になっています。

天守台の手前にも井戸がありました。もし井戸にみせかけた抜け穴があるとしたら、天守台の近くのこの井戸か、本丸御殿にある井戸のどちらかとだと思います。脱出するとしたら、中心部の近くにつくらないと意味がないですからね。

小天守台跡からまわりましょう。福岡城には小天守・中天守・大天守があり、小天守は東側になります。

振り返ると大天守がみえます。写真に写っているのは、桜の季節だけ単管パイプを組み上げて設置された『幻の天守閣』です。夜になるとライトアップされて光ります。※ 現在は撤去済み

小天守とはいえ、下をみると高さはかなりのものです。

とても見晴らしがよく、天神方面が綺麗にみえます。

では、一度下りて大天守の方へ行ってみましょう。

残念ながら訪問時は大天守台跡までは見学できないようになっていました。現在は登って、福岡市内を一望できます。

大天守台の右側には埋門跡があります。合戦時には内側から土壁などで埋めて通路をふさぎ、敵の侵入を防ぐ役割がありました。

一通り見終わったので、桜園を通って表御門跡から下城します。

扇坂御門跡

表御門を出てしばらく進むと、扇坂御門跡があります。その名の通り、今でも扇の形をした石段が残っています。

実はこの扇坂御門は、別名「お綱門」と呼ばれており、戦前までは怪談の舞台として有名な場所でした。

博多に伝わる 怪談 お綱門

時は黒田家二代藩主・忠之公の治世です。黒田騒動を引き起こした、悪童として名高い殿様ですが、話は忠之公が参勤交代の途中に、大阪で美人芸妓・采女を身受けした事にはじまります。福岡に采女を連れ帰ると、連日酒宴を催して忠之はのめり込みます。見かねた家老達の諫言により、しぶしぶ采女を家臣の浅野四郎左衛門に采女を下げ渡す事になりました。

浅野四郎左衛門にはすでに正妻のお綱と2人の子供がいましたが、なんと正妻を馬出にある別宅へ移し、本宅へ采女を迎え入れました。そして四郎左衛門は美人の采女に惚れ込み、別宅に住んでいるお綱達には生活費さえ渡さなくなります。生活は困窮し、子供達の桃の節句にも困る有様でした。みかねた下男が四郎左衛門の元へ談判に行きますが、けんもほろろに追い返されてしまいます。下男は途方に暮れて、とうとう帰りの松林で首をくくってしまいました。

事の顛末を聞いたお綱は発狂します。我慢を重ねてきましたが、本妻としての面子を潰されて完全に切れてしまいました。死装束に着替え、子供達を刺し殺すとそのまま薙刀を抱えて本宅へ走ります。家にいた采女をめった斬りにして、次に四郎左衛門を探し回っていると、たまたま客分として家にいた明石彦五郎に斬られてしまいます。四郎左衛門は登城中だという事がわかると、斬られた身体でフラフラとお城へ向かいました。

しかし、血が流れ過ぎたのか、最後は扇坂御門の前で力尽きました。それ以来、門に触れると高熱にうなされたり、雨の日に幽霊が出るなどの怪異が続き、博多の人達はお綱さんのたたりだと恐れました。その後、四郎左衛門は原因不明の高熱が続いて死去。お綱を斬りつけた彦五郎は、なぜか荷物の中から黒田家から盗まれた家宝の脇差が出てきて、拷問の末に斬首されました。

明治期になって福岡城には歩兵第24連隊が置かれますが、それでも怪異がおさまらず、仕方なく門は現在の家庭裁判所の場所にあった、長宮院に移されて供養される事になりました。

東区馬出に残るお綱さんと子供二人の墓

また、お綱が暮らしていた下屋敷では、頻繁に火の玉が目撃されるようになり、一帯で火事が相次いだため人々はお墓を建てて供養碑を建立しました。

お綱さんの話は怪談話の為、後年にかなりの脚色が入っています。実際に最後を迎えた門も、扇坂御門ではなく東御門とか上の橋御門など諸説あります。ただ、四郎左衛門や彦五郎など登場人物の墓が全て残っている事から、刃傷事件があったのは確かなようです。

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