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トークイベントには磯田道史さん、千田嘉博さん、平山優さんに加え、山口祥義佐賀県知事が参加。司会は佐賀新聞の社長さんが担当されていました。あいにくトークイベントは録画等禁止でした。残念。。。写真はトークイベント終了後のものです。主だった内容は次のとおりです。

首都機能を有していた名護屋

司会:名護屋城は往時、150あまりの大名と15万から20万という人々が集まった大都市だったといわれております。みなさん、15万人とか20万人の規模というと佐賀市や久留米市くらいと思っておられると思いますが、九州の一番端っこに20万人、想像つかないんですけど、完全に首都機能を有していたと、、、」
平山 日本の中心は肥前名護屋にあった。あるいは日本の首都機能は名護屋にあったというのをひとつの
売りにしたいなと思っていたんです。ここに居なかったのは天皇と公家だけなんですよ。その場所がこれだけの年月を経ているにもかかわらず、その陣屋の跡も非常にきれいに残っている。みなさん前田利家の陣跡行きました?草をちゃんと刈ったらね、枡形虎口が出てきたんだよ。すっごい綺麗で。ここは豊臣時代がぎゅっと詰まって封印されたタイムカプセルみたいなところです。なのでもっと知ってもらいたいし、もっと見に来てもらいたいと思っています。

司会 (10数年ほど前に)磯田先生と2人で名護屋城跡に行きました。誰もいませんでした。朝鮮出兵が終わったら棄却されて、見る物がないんですって言ったら、とんでもないと怒られましてですね。(磯田さんから)「あなたの足下にあるのは400年前から手つかずの豊臣秀吉の一番大きなお城です」その事を御記憶されています?

磯田 ありますあります。以前、名護屋城に行ったら、御殿の発掘をしてて、秀吉時代の御殿がみえる。首都機能って平山先生がおっしゃいましたけども、本当にそうで、ここは日本近世はじまりの地であり、首都機能があったところです。僕は秀吉政権というのは、京、大阪、名護屋時代と呼びたい。安土桃山時代とかいうけど、秀吉は伏見桃山城には1年しかいてないんです。

名護屋城下は、国内で京都(30万人前後)や大坂(20~30万人)に次ぐ大都市だったようです。また世界的にみても20万人の人口が集中した都市は世界でも数えるほどしかなく、同時代のロンドン、メキシコシティに匹敵し、アジアではトップ10に入る可能性があったようです。すごいですね。

数十万の大陸動員を可能にした官僚機構

磯田 当時の日本の人口、いろんな説ありますけども、千数百万と言われているので、今の10分の1から8分の1です。それで、ここで大陸への戦を考えて、一説によると秀吉は国内動員48万人を想定したわけです。そうすると日本中で300万人の成人の男性(老人を除いた)しかいない。その中で、なんと48万人の移動を想定する命令を出し、14万人の人間をここから渡海させるという、めちゃめちゃな計画なんです。そうすると役所の権力が非常に強くて、計画したら軍隊のように一斉に動く日本になるんですよ。元の日本には戻れないんです。

司会 よく何万人の軍勢とか言いますけども、この軍勢をどうやって移動させてどうやって、ご飯を用意して、ましてや船で朝鮮半島に渡るっていうのを兵站、ロジスティックスといいますけども、こういうのを緻密に計算する官僚機構が整っていないと全く機能しない。それができたのが信長、秀吉の時代だった。そういうことですよね。元の日本じゃないですよね。「はじまりの名護屋城」というテーマで4回の茶会を開いていますけども、(それから)約300年間くらいやってきたんじゃないですかね。非常に世界史上も重要な場所です。

平山 これはですね、わたしの関心が普通の人と違うのかもしれませんけども、朝鮮出兵した出城というイメージでみんな勉強していたんですけども、150もの武将が集まって、簡単に言うと全国知事会をずっとやっているわけですよ。

司会 全国から150もの大名が集まったっていいますけども、当時の大名ってお互い顔を見たことがないですよね。だいたい、親兄弟、先祖の敵じゃないですか。強制的にこの狭いエリアに150人の大名が集められて、この前まで殺し合いをやっていたのに、数年間、対峙したというのはどんな心理だったと思いますか。

磯田 一斉に全国の大名がシャッフルされて、みんなで趣味や文化を共有しはじめるとういことが非常に重要ですね。それでこういう話が残っていますね、ここに長くいるとエンターテイメントがないと、、、そうすると秀吉は能舞台、シアターをつくって、みんな隠し芸大会をやらせるわけです。大名自身がやるわけです。それでね、能舞台の上で、たとえば家康が舞ってみる。そうすると、(秀吉の側近に)「まるで狸が飛び跳ねているようだ」と笑われるが、それを秀吉が戒めている。(秀吉は)「あれは無駄な芸事はやらないんだ。だから関東一の金持ちであれだけの軍勢を引き連れているんだ。表面で人間を見たらいけんよ」と側近に教える。そしたら一方で誰が褒められたか、信長の子供の信雄。秀吉の側近の小姓達は「やっぱり格好いいなぁ。容姿もいいなぁ」と言って信雄を褒める。そしたら秀吉が陰口をたたく。「あいつは信長の子供に産まれてジャンプ代は高いのに、あんな芸事なんかに打ち込んでいるから俺に使われて、こんな状態だ」。そういう会話がここでなされていくわけです。

朝鮮に数十万もの軍隊を送り出す算段をした石田三成の事務処理能力は、やはりずば抜けているのでしょうね。現代まで続く、中央集権体制がこの名護屋城で誕生したというわけですね。まさにはじまりの名護屋城といった感がありますね。

現地妻が歴史を変えた

磯田 (大名たちは)単身赴任になるや、どうしようと。秀吉は「嫉妬する奥さんは連れてきていいよ」と言うわけです。そしたら正室の奥さんたちはこれない。それで、大名達は好きなことを始めてしまう。そして前田家の場合は千代保という女性が「はい、わたし利家様の横に使えていきます」っていって、ここへ来て生まれたのが利常っていう後の藩主になるわけですから。だいたい、自分から率先して、手をあげて、正室がこわいけども押し切っていくような人だと、やっぱり(子供は)すごい武将になるわけで。利常とか有能な子供がでて、歴史が変わっていくわけです。

平山 鍋島直茂の奥さん(陽泰院)は秀吉に呼ばれた時に、角刈りにして髪切って、、、なんか変な風になったらいかんだろということで、ご存じです?だから危険だったんでしょうね。秀吉が、いろんな殿方の奥様を集めたことがあったらしくて、そういう記録も残っている。

磯田 そういうね、いろんな物語がここで展開し、あと本音が現れますよね。さっきちょっと話しましたけども、ここは十五万、二十万とか十数万とか集めても水が無いわけですよね。水を運んでこないといけない。水争いで結構、あそこの大名家と仲が悪くなったり。。。リアル感が恐ろしいのが、このくらいの六畳一間とかの場所で、この地帯に山里郭あるじゃないですか。山里郭に秀吉が住んでいて、その山里郭のちっちゃな建物の中で秀吉と淀が寝床を供にしていないと、秀頼は存在していないと。だから、ここで誰と寝ていたんだという生々しい歴史を現実とともに迫ってくる所なんですよ。

嫉妬してるなら名護まできていいよって言われたらプライドの高い正室なかなか来れないですよね。秀吉は、その心理も折り込み済みなんでしょうね。また、正室を差し置いて、転がり込んでくる女性は肝が据わってると。その血を受け継いだ子供は、やはりひとかどの武将になるんでしょうね。

トークはまだまだ続きます。。

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投稿者

arahira

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