全国から20万人が集った幻の名城
天気が良かったので、ちょっと名護屋城跡に行ってきました。
名護屋城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の前線基地として築かれた、面積約17㏊の巨大な城です。
黒田官兵衛の設計を行い1591年8月に加藤清正、黒田長政、小西行長ら、九州の諸大名が普請を命じられました。分担工事で競わせたことにより、わずか半年後の1592年3月に完成。当時では大阪城に次ぐ規模を誇りました。
本丸北側の水手口から進むといきなり本丸につながります。無防備とも思える配置に驚きました。もちろん道は細く折れ曲がった急な坂を登りますので、一定の防御力はあったのでしょうね。
本丸全体には檜皮葺で書院造風の格式の高い御殿があったと伝わっています。発掘調査の結果、判明した建物の位置は芝生で示されています。
本丸の西北の隅には天守台も築かれました。肥前名護屋城図屏風には5層7階建(地上6階、地下1階)の建物で、高さは石垣から25~30mほどあったと推定されています。
この名護屋城の半径3㎞圏内には全国から戦国大名が集結し、130以上の陣屋が確認されています。城下は20万人以上の人々が集まり、日本の政治、経済、文化の中心として賑わいました。
本丸周辺には埋められた石垣があります。平成4年度の調査で大規模な石垣の最上段であることが判明。本丸の内側をなぞるように天守台まで続いています。この石垣は築城当初のもので、何らかの理由で埋められて、ひとまわり大きい現在の石垣が築かれたとか。その理由はまだ分かっていません。
今回はここまで。次回は三ノ丸、二の丸などを紹介します。