松倉、高力、松平、戸田の4氏19代の居城
天気が良かったので、ちょっと島原城に行ってきました。
大和五条から島原へ移封した松倉重政が1618年から7年の歳月を費やして築城しました。南から本丸、二の丸、三の丸が並ぶ構造で、さらに北側には家臣団の屋敷を取り込んで、城の外郭線を形成しています。
現在の島原城を訪れると本丸と二の丸だけかと思ってしまいますが、実際の島原城は北側の島原高校、島原第一小・中学校をすっぽりと取り込み、さらに北の住宅地まで及ぶ、長方形の巨大な要塞でした。東西が約350m、南北が約1200mですから、お城の外周は約4000m。特大サイズだったことが分かります。総石垣で天守や数多くの櫓を建て並べるなど、4万石の松倉氏にしては過分な城で、領民の負担はかなりのものだったようです。事実、次代の勝家の代に島原の乱を引き起こす要因となりました。
島原の乱を引き起こした責任を負い、勝家は斬首。松倉家は改易となります。その後、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と松倉氏を含め4氏19代の居城となりました。1874年の廃城令により、島原城は廃城処分となり土地・建物が民間に払い下げられます。1876年には建物が破却され本丸は畑地となり、三の丸は学校が建ち並びます。現在の本丸は1964年に復元。5階建ての歴史資料館となっています。
5階が展望室で島原半島を一望できます。
本丸敷地には西櫓、巽櫓、丑寅櫓なども復元されており、民具資料館などとして使用されています。
本丸は水堀で囲まれており、二の丸とは木橋1本で繋がれていたそうです。
お城の周りを1周するのに1時間近くかかってしまいました。如何にこのお城が巨大だったのか実感させられます。近くに武家屋敷もあるので、自転車で散策できたら最高ですね。