「西の浪速」と呼ばれた商人の町
天気が良かったので、ちょっと牛津宿に行ってきました。
牛津宿は佐賀宿と小田宿または六角宿との間に位置する交通の要所でした。宿の中心地の牛津本町は、西町、立町、中町、東町、新宿の5町で構成。最もにぎわってたのは立町で、諸大名や長崎奉行らが寝泊まりした高級旅館「上使屋(本陣)」がありました。上使屋で足りない場合は少し離れた場所にある正満寺なども脇宿として使用されました。
参勤交代で大名は他の大名と道中ですれ違ったり、宿でかち合ったりするのを極力避けました。鉢合わせになると、お互いに非常に気を使う必要がありますし、無用のトラブルに発展する危険性もはらんでいるためです。このため先発隊を送り、付近に他家の行列がいないか偵察を行っていたそうです。
牛津宿は比較的狭い割に多くの大名らが往来するので、鉢合わせの可能性が高かったそうです。牛津の商人・野田新兵衛と、その子の新吾兵衛によって書かれた「野田家日記」には「嘉永5年三月廿一日、嶋原様江戸登り、此日平戸様御下り、両公本町の御昼休、嶋原様は即刻早くして定原の大庄屋に御入り有り、平戸様は一時計り刻限遅くして上使屋に御入り有り、互に御出合なし」と、島原藩主と平戸藩主が鉢合わせになりそだった事態を記録しています。
中町には禁制すべき事項を列挙した高札場がありました。切支丹禁制、異国船、難破船、徒党、強訴、逃散のほか公議伝場の駄賃などの高札が立てられていました。
牛津宿を流れる牛津川は、船運路として利用され、大阪の呉服、熊本の畳表、八代の木材、大牟田の石炭など、全国から多くの商品が船で運ばれました。
牛津の商店の代表は田中丸商店でしょう。1806年に田中丸善吉が牛津西町に小さな呉服屋を開いたのが田中丸商店のはじまりです。玉屋の創業者である3代目の善蔵は上方から呉服や小物などを大量に買い付け、船で牛津に直送。大いに利益をあげました。
しかし、鉄道の開通により水運は徐々に衰退し、商人は都市部へ移動しました。田中丸商店も佐賀や博多、小倉に玉屋デパートを出店しました。