長崎街道の起点問題
天気が良かったので、ちょっと大里宿跡に行ってきました。
長崎街道を語る上でよく出てくる話題といえば「起点は小倉か大里」ではないでしょうか。
当初は小倉城下だったのが、大里に移ったという説が結構支持されてるみたいです。
参勤交代時に九州の大名が関門海峡を渡るために利用していたのは黒田藩領内の黒崎湊でしたが、小倉藩と幕府の代官は小倉城下の紫川口を利用していました。小倉藩が城下から離れた大里に宿場と船場を整備すると、九州の諸大名も利用するようになり、大里は賑わいました。
一般的に参勤交代の大名が宿場を入る前日から当日にかけて、宿場では町衆による清掃が行われていました。そして殿様一行の来宿を楽しみに待ったそうです。それはお金を使ってくれるのを期待しているから。なので宿場で節約する大名は評判が悪かったそうです。
本陣跡
大里宿で評判が悪い大名の双璧は鍋島家と島津家だったそうです。当時の人から
「いやなお客は 鍋島薩摩 いつも夜泊まり 七ッ立ち」と言われていました。大藩なれど両家の懐事情は厳しく道中の費用を抑える必要があります。このため夕食代と朝食代を浮かすべく、夜遅くに宿に到着し、朝は朝食前に出立し渡海していました。素泊まりだけでは宿場は潤わないのでしょうね。なかなか手厳しい俚諺ですね、、、
一方で大里宿の町衆は旅人から不評だったそうで「人の悪いは門司、日野浦よ、大里、長浜、曽根、刈田」と言われてました。根拠は伝わってないですが、その一因ではないかと思われるエピソードがあります。。
それは薬罐蛸という大里の名物土瓶蒸しです。土瓶の中に入れられて蒸された蛸は固くなって、なかなか取り出せず食べることができません。悪戦苦闘しているうちに船が出る時間となってしまい、お客はあきらめて乗船してしまいます。その残った土瓶蒸しを温め直して別のお客さんに出していたそうです。
「やれやれ、薬罐蛸は食えなんだが、大里宿の町衆ほど煮ても焼いても食えん人間はいないわい」と噂になったとか。大口客である大名がお金を落とさないために、なんとか考えだした悪知恵ですが、そりゃ評判悪くなりますよね。