国立監獄と揶揄された人工島

出島でオランダ人はどのような生活をしていたのでしょうか。出島は東西約70m、北側約190m、南側約233m、周囲約563mの大きさで、面積は3924坪(約1万5000㎡)。 東京ドームの約3分の1です。広いのか狭いのかピンときませんが、出島から長崎の町に出ることは許されず、ここで生活していたことを考えると、かなり窮屈な生活を強いられていたのではないでしょうか。事実、オランダ人は「国立監獄のようだ」と嘆いていたそうです。

確かに狭いですよね

出島に住んでいたオランダ人は、最高責任者である商館長(カピタン)、商館長次席の(ヘトル)、貨物管理の責任者である荷役役、決算役、書記役、医師、調理師などで、時代により増減はありますが、多いときで15人ほどでした。意外と少ない印象。一方で日本人は多く、責任者の乙名、通訳の阿蘭陀通詞、門番、料理人、草切などさまざまな役職の者が働いており、100人以上いたそうです。

出島では年間を通して商品の売買が行われていた訳でなく、オランダ船が季節風を利用してバタヴィア(現在のジャカルタ)を出港し、7、8月ごろに来航。9、10月、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきた。例年7 – 8月ごろ来航し、11、12月に帰路につくまでは大忙しでした。これ以外の期間は大変暇だったようです。

この退屈な出島での生活の気晴らしが、酒や女やビリーヤード、バトミントンでした。お酒はジェネバーと呼ばれるジンを大量に運び楽しんでいたようです。ジェネバーはアルコールの度数が高い蒸留酒で、長期間でも品質が変わりにくいため重宝されていたようです。出島の発掘調査ではこのお酒のボトルの破片が多く出土しました。

「玉突き場の図」川原慶賀

出島では女性の出入りは厳しく制限され、唯一、出入りを許されたのは丸山町や寄合町の遊女のみでした。彼女らは「オランダ行き」と称し、付き添いの少女を連れて、出島に入っていました。遊女との恋愛話は多く記録されていますが、なかでも有名なのは医師シーボルトと引田屋の楠本タキではないでしょうか。2人の間には、日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだ楠本イネが生まれています。

シーボルト
楠本イネ

出島からの外出を禁じられていた彼らですが、毎年、商館長が将軍へのあいさつに江戸を訪れる「江戸参府」には付き従い、日本の様子を間近で見ることができました。往復に2カ月、滞在に1カ月の大旅行で、道中は見物人で賑わっていたそうです。また、10月7、8、9日の長崎くんちにも長崎の町に出ることができたそうですが、ちょうど取引に忙しい時期であり、くんちの期間は業務が完全ストップするので、「また祭日で売り渡した品の引き渡しもできずはなはだ困った」などの記録が残っています。売買できる期間は1カ月と定められていたため、お祭りどころではなかったようです。

将軍への献上品の像。受取拒否されたそうです。

このように商館員の生活をみると大変そうですが、勤務を希望する者は後を絶たなかったそうです。理由は特定の品を個人的に売ることも認められており、出島勤務はかなりの副収入があったためだとか。なかには密かに品物を持ち込んで売りさばくこと(抜荷・密貿易)こともあったようです。

また、のんびりと平和な生活を過ごしていたようなオランダ人ですが、幕末の動乱期になると、外国人をとりまく環境は悪化したようで、出島の発掘調査では弾が込められたままの拳銃が出土しています。

投稿者

arahira

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