前回までの話はこちらから)海援隊は亀山社中が発展する形で誕生した組織です。1867年、亀山社中は土佐藩に付属する外郭機関として海援隊と改称。坂本龍馬は脱藩の罪が許され海援隊隊長となります。隊資格は「およそかって本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る」と、海外に志があれば武士だけでなく庶民からも隊員として受け入れていました。隊の規約に「運輸、射利、開拓、投資、そして土佐藩の応援」と目的を堂々と書いてありました。射利(利益)の追求を掲げているのは当時の組織としては画期的なものです。

海援隊は亀山社中時代から長崎の豪商・小曽根乾堂の支援を受けていました。小曽根家の邸宅は海援隊士が頻繁に出入りし、実質的な隊の本部と言っていいと思います。

長崎地方法務合同庁舎にある小曽根邸の跡
龍馬の妻・お龍さんも滞在し、月琴を習ったそうです

わたしが海援隊で真っ先に思い浮かぶのは、1867年のいろは丸沈没事件。これは大洲藩から借り受けた「いろは丸」を運航中に紀州藩の明光丸と衝突し、いろは丸が沈没した海難事故です。紀州藩は幕府の裁定に任せるとしましたが、龍馬は万国公法を持ち出して紀州藩の過失を激しく追及。最新のミニエー銃400丁など銃火器、金塊などを積んでいたと主張した結果、紀州藩が賠償金約8万3500両を支払うことで決着しました。8万3500両は、現在の貨幣価値に換算すれば164億円にものぼるそうです。

それから約120年後に、いろは丸が沈没した宇治島(広島県福山市)の沖の海底でいろは丸が発見。以後20年間で4回の海底調査が行われましたが、金塊はおろか当時最新のミニエー銃も見つかっていません、、、我が国最初の海難審判事故と言われていますが、最初の賠償金詐欺事件でもあるような気がします、、、もっとも龍馬は、紀州藩が土佐藩に賠償金を支払った8日後に暗殺されたため、彼の手元に入ることはなかったですが。

近藤長次郎

海援隊からは陸奥宗光をはじめ維新後、立身出世したものが多くいましたが、残念なことにその才能を発揮することなくこの世を去った者もいました。近藤長次郎はその代表的なひとりです。

近藤長次郎

近藤長次郎は1838年、土佐藩内の饅頭屋の息子として誕生。幼少期から聡明で、土佐藩主・山内容堂にもその才を認められ、名字帯刀が許されました。後に龍馬らと亀山社中を設立。大いに活躍しましたが、計画していたイギリスに留学が、亀山社中盟約書に違反していると社中から責められ、責任をとって切腹しました。享年29。

この時、龍馬は不在でした。龍馬の妻・楢崎龍の回想録「千里駒後日譚」によると「長次さんは全く一人で罪を引受けて死んだので、己をれが居つたら殺しはせぬのぢやつたと龍馬が残念がつて居りました」と、その死を嘆いたそうです。

長次郎が眠る皓台寺
小曾根家の墓地内にある長次郎の墓。小曾根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と刻まれています

また「アノ伊藤俊助さんや井上聞多さんは社の人では無いですが長次さんの事には関係があつたと見え、龍馬が薩摩へ下つた時、筑前の大藤太郎と云ふ男が来て伊藤井上は薄情だとか卑怯だとか矢釜やかましく云つて居りました」と、長州藩の伊藤博文や井上馨を批判する人がいたそうです。伊藤や井上はイギリスに留学したことがあるので、長次郎に留学を勧めたんですかね。それで事が発覚したら、全く庇ってくれなかったということでしょうか。

沢村惣之丞

1843年、土佐藩の浪人の子どもとして生まれます。1862年に脱藩。一時帰国した後、龍馬らと再び脱藩します。勝海舟の門人となり、龍馬と行動を共にしました。英語と数学が得意で、その能力を海援隊でも発揮したようです。坂本龍馬が暗殺された際には大坂にいましたが、直ちに京都に駆けつけ容疑者であった紀州藩士・三浦休太郎の暗殺計画に参加。計画は失敗に終わりますが義に厚い男だったのでしょうね。

沢村惣之丞

ちなみに陸奥宗光は、海援隊内で「臆病たれ」と言われており、襲撃に参加するのを最初は「嫌だ」と断ったとか。身の危険を感じていた三浦は新撰組に警護を頼んでいたので、その中に斬り込むのは恐ろしかったんでしょうね。または自身の出身である紀州藩の人間を襲うのに抵抗があったのかも。

陸奥宗光

結局、嫌々参加していますが、お龍の回顧録では「皆んな二階に躍り込んで火花を散らして戦つて居るに、陸奥は短銃ぴすとるを持つたまゝ裏の切戸で一人見て居つたと云ふことです」とあります。また「腕は余りたゝなかつたですが弁は達者な男でした」とも。

話しを沢村に戻しますが、龍馬の死後は長崎で警護していましたが、1867年に警備中に誤って薩摩藩士を殺害してしまいます。土佐藩と薩摩藩との軋轢を恐れた沢村は海援隊本部で責任を取って切腹します。享年26歳。薩摩側からは制止されますが「諸君、畳の上で薬と組打ちするよりいっそ潔いぞ」と笑って自害したそうで、気丈な人物だったんでしょうね。

本蓮寺に合同墓碑として沢村の墓「村木氏外土佐住民諸氏之墓」があります。平成2年に確認されました。
沢村の別名、「関雄之助」の文字が刻まれています。