日田街道や薩摩街道と交差する交通の要所
天気が良かったので、ちょっと山家宿跡に行ってきました。まずは西構口から散策しました。筑前六宿のうち完全な姿で残っているのは、山家宿の西構口だけです。
西構口を入ると、すぐに御茶屋跡があります。藩主が領内巡視の際に宿泊や休憩をとった施設で、長崎奉行や諸大名も使用していました。
また、筑前六宿の御茶屋は代官が管理していました。山家宿 の初代代官は桐山丹波守孫兵衛で、黒田二十五騎の一人として黒田家四代に仕え、宿駅の創設や冷水峠の開通などに功績があります。
また、御茶屋を取り囲むように山家宿下代屋敷が5軒建っていました。
山家宿 下代屋敷跡
山家宿 は西構口から東構口までの約450mの宿場通りはカギ型となっています。これは戦の時に大軍が一気に進軍できないようにする工夫だとされています。
このカギ型の道には恵比寿石像があります。山家宿の成り立った時期を記念して、裏面に碑文が彫られています。それによると1611年に宿場町として機能していたそうです。
そして、恵比寿石像から少し進むと山家郡屋跡があります。
郡屋は主要な宿場に設けられた施設で、藩の役人が各村の庄屋や村役人に対し藩命を伝達したり、諸大名が宿場を利用するにあたって打ち合わせが行われていました。
さて、現存しない東構口の隣には大庄屋役宅跡があります。近藤家は4代弥九郎から8代良平まで5代90年以上、大庄屋を務めました。
大庄屋役宅には長屋門があり、1889年から1930年まで山家郵便局として使用されていました。
この大庄屋役宅跡から冷水峠方面に1500mほど進むと山田家があります。ここは細川藩主が長崎街道を通るときに宿としており、肥後細川藩本陣宿とも呼ばれています。
山家宿では仇討ちが起こったそうです。これに関しては資料を集めていますので、準備が整えばご紹介したいと思います。