戦国山伏の居宅と居城
天気が良かったので、ちょっと池田大日堂と池田城跡に行ってきました。
まずは池田山の麓にある池田大日堂を訪れました。ここは旧早良郡脇山村の池田という地域で、かつては「脊振山上宮領筑前国脇山院」と呼ばれた脊振山の支配地域でした。筑前国続風土記(巻之二十一)では「椎原、板屋、小笠原、西村、脇山、内野、石龜、曲渕、凡およそ八村をすべて脇山郷と云。 昔脊振山東門寺の別院此村に在しかば、右の八村をすべて脇山別院とも云り。 會津風土記曰、早川郷の内、院内村は、もと東光寺の院内の地也。 故に村の名を院内といふといへるがごとし」とあります。
池田大日堂は天文年間(1532年~1555年)に建立されました。
この堂に安置されている本尊の木造大日如来座像は市有形文化財に指定されています。総高は130・5㎝、像高は80・8㎝の槍材の寄木造です。
境内には池田大教坊という山伏の居宅もありました。筑前国続風土記(巻之二十一)には「池田と云枝村在り。脇山と岡鷺村との間に在り。此所に大日堂あり。 古佛也。 大教坊と云、山伏の住せし宅の址、 大日堂の側に在り」と説明しています。
それで、この池田大教坊は何をしたかというと、戦国時代に龍造寺隆信に与したために荒平城の小田部氏から攻め殺されました。筑前国続風土記では徒党を組み領地をかすめ取り、すこぶる威をふるったと悪者扱いにされています。が、所詮は小勢力。小豪族の小田部氏よりも、大樹に寄ることは必然だったのではないでしょうか。結果、龍造寺氏に使い捨てにされたような形で最期を迎えました。戦国の世の常ですね。。。
大日堂の裏山にある池田城跡へ
池田大日堂を後にして、裏にある池田山(標高241m)に登ってみることにしました。ほとんど訪れる人がいないため、どこを歩けばいいのか分かりませんでした。ヤマップでも池田山の地図はダウンロードできず。
この池田城は、ほぼ何も遺構は残ってないそうです。ただし、尾根道に見張台跡があるそうで、どこかそれらしい所はないかと注意深く確認しながら、歩きました。
登山道としては整備されていないので、GPSを使って、とにかく上へ上へと進みました。。。
進めば進むほど、草木が生い茂り、歩を進めるのが辛くなってきました。さっきから、体の至るところが痒いし、なによりも「チクッ」っと足に何か咬まれたような痛みが気になりました。。。。そして、、、
この茂みをかき分けて進む気力は残っていませんでした。情けないですが、ここでギブアップです。。。