勝敗を分けた慶誾尼の檄

天気が良かったので、ちょっと今山古戦場跡に行ってきました。
今山の戦いは1570年4月から8月にかけて行われた、龍造寺隆信と大友宗麟との合戦です。

龍造寺隆信
大友宗麟

1570年3月、豊後の大友宗麟が6万とも8万とも云われる軍を率いて龍造寺隆信の肥前領に侵攻しました。当時、一地方領主に過ぎなかった龍造寺氏はわずか5000で、佐嘉城に籠もって迎え撃ちます。寡兵とはいえ、龍造寺軍の指揮は高く、一進一退の攻防を展開します。

大友宗麟は久留米の高良山に陣取って家臣に差配していましたが、8月になっても佐嘉城を攻め落とせないことから、弟の大友親貞を総大将に命じ派遣させます。親貞は佐賀市大和町の今山に布陣し、8月20日に総攻撃をかけることを決定。前日に勝利の前祝いとして本陣で酒宴を開きます。

今山の陣跡
供養塔
今山から佐賀市内を望む
佐賀市内が見渡せます

この様子を入手した龍造寺軍の鍋島直茂は本陣に夜襲をかけることを進言。周囲は籠城論や降伏論が根強く、無謀だとして反対されますが、龍造寺隆信の生母・慶誾尼が直茂に従うよう檄を飛ばします。

なんでも、城中の者は猫の前の鼠のようだと、おびえずに敵本陣に斬り込み生死を分かつことこそが男子の本懐だろうと。要は「オマエらキン〇マ付いてるのか!」と怒ったんでしょうね。

このエピソードを聞くと、フォークランド紛争におけるイギリスのマーガレット・サッチャー首相の発言が思い浮かびます。1982年、イギリス領フォークランド諸島に侵攻してきたアルゼンチン軍に、サッチャーは武力で解決しようとしますが、サッチャー内閣の閣僚は皆、派兵に後向きでした。その時に発した「この内閣に男は私一人しかいないのか」という台詞は有名ですよね。女性に、ここまで言われたら戦うしかない。。。

慶誾尼も鉄の女だったのでしょうか

結果、直茂以下500の奇襲部隊を編成し、今山の大友親貞の本陣の裏から斬り込み、親貞を見事に討ち取りました。総大将を失った大友軍は、ちりぢりになったそうです。今山の近くの佐賀県立林業試験場の敷地内には、今山の戦で戦死した大友軍約1000人、龍造寺軍約100人を葬った黒戸原の千人塚があります。

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