今も語り継がれる安楽平城
早良風土記も今回で600回を迎えることができました!
これもひとえに皆様のご愛顧のたまものだと感謝申し上げます。
600回を記念して、かつて早良の地に存在した安楽平城について、5夜連続でご紹介します。
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この山城について、ご存じの無い方が多いかもしれません。ですが、地元では龍造寺軍との攻防戦やその後のエピソードなどは今でも語り継がれていますし、わたしの母校の校歌には安楽平城跡というフレーズが入っています。とても身近なものなんですね。
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安楽平城は荒平山(394・9m)の頂上一帯に築かれた山城で荒平城とも記されています。周防・長門国を支配する大内氏が1447頃から筑前を守護化し、本国から早良郡代を派遣しました。早良郡代は安楽平城に在城し、安楽平城督を兼務しました。記録によると石津外記録充、飯田幸松、飯田新蔵重頼、遠田岩見守兼常、神代与三郎兵衛、大村日向守重継、大村讃岐守興景、飯田石見守興秀、木上筑前守と続き、隼人佐鎮隆が安楽平城督となります。この隼人佐が小田部氏に改姓し小田部鎮隆と名乗ります。
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1557年に大内氏が滅んだ後、豊後の大友氏が筑前に進出しました。安楽平城は大友支配下の城となり、小田部鎮隆は近隣の鷲ケ岳城城主の大津留早雲入道の二男・鎮元(紹叱)を養子に迎えます。
筑前大友五城のひとつ
安楽平城は筑前大友五城のひとつに数えられ、大友氏の筑前支配の要となりました。このほかの五城は立花山城(福岡市東区)、宝満山城(太宰府市)、柑子岳城(福岡市西区)、鷲ケ岳城(那珂川市)です。
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このうち立花山城の立花氏、宝満山城の高橋氏、柑子岳城の臼杵氏は大友氏の家紋の使用を許された同紋衆でした。いわばエリートですね。当時、大友家から家紋の使用を許されるのは大変な名誉とされたそうです。
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安楽平城の小田部氏と鷲ケ岳城の大津留氏は、大友家でも外様の立場となります。ですが、この両氏結びつきも強いものでした。というのも、先ほど書いたように小田部鎮元は大津留氏の出身だったからです。
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筑前の大友支配
大友氏による支配は当初、強大ではありましたが、一つ一つの国衆をみると複雑な事情を抱えていました。糸島の高祖城の原田氏は同じ大友方の臼杵氏と仲が悪かったですし、小田部氏も原田氏との関係は良くはありませんでした。それでも大友氏の影響の上に勢力の均衡が保たれていました。
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龍造寺勢の侵攻
小田部氏の支配は20年ほど続きますが、1578年に大友宗麟が島津義久に耳川の戦いで大敗すると、一気に雲行きが怪しくなります。周辺の筑紫氏、原田氏らの国衆が反大友方に転じ、小田部氏は防戦を強いられ、翌1579年3月には反大友の国衆らと結んだ龍造寺隆信が筑前への侵攻を決定。その先駆けとして家老・執行越前守種兼を大将とし、肥前から背振山地を越えて安楽平城に進軍させます。
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龍造寺勢には小田部氏と対立していた原田氏、曲渕氏など筑前の国衆も加わりました。特に曲渕氏は1576年に小田部鎮元の急襲を受けて居城・曲渕城が落城。龍造寺氏を頼って肥前に落ち延びていました。「覚えてやがれ!!」と捲土重来を期していたでしょうね。
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脊振連山の三瀬、小爪、椎原などの峠を越えて早良郡になだれ込んだ龍造寺軍はその数5000人。近郷を焼き払い、安楽平城を孤立させます。1579年3月、かくして安楽平城下は臨戦態勢に入っていきます
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