その後の安楽平城
落城後の安楽平城は、龍造寺方に与した肥前の勝尾城城主・筑紫広門が接収し、一族の筑紫恒門を城主とします。その後、筑紫氏は島津氏の筑前出兵で勝尾城を落とされ降伏。安楽平城は島津氏に接収されました。後に立花山城を囲んだ島津氏が立花宗茂に「早良郡二荒平と申名城」を与える降伏条件を示したことが上井覚兼日記に書かれています。依然として重要拠点であったようです。
立花山城に落ちのびた小田部源次郎
小田部鎮元の二男・源次郎は家老・鬼倉対馬守に伴われて、立花山城に逃れました。その後、立花宗茂の妹・千代と結婚し、2度の朝鮮出兵にも出陣し、大いに活躍します。その子孫は柳川藩に代々仕えました。
鷲ヶ岳城は、、、
安楽平城へ援軍を差し向けたため、手薄となった鷲ヶ岳城も落城の危機にさらされます。1579年10月から始まった龍造寺軍との攻防戦では、高橋紹運の応援もあり何とか持ちこたえますが、2年後の龍造寺軍の再襲来では、ついに開城することになります。安楽平城攻防戦と同じく水の手を断たれたのが、勝敗を分けたとされています。
荒平くずれ
安楽平城落城後、小田部家臣団は、それぞれ散り散りとなり農業や商業に従事し、たくましく時代を生き抜きました。この人たちを「荒平くずれ」と呼ばれています。時代が流れ、再び世に出た人で有名なのは岩田屋を創業した中牟田一族と油屋・質屋・米屋などを営んだ伊佐一族でしょう。西の油屋、東の岩田屋と東西で肩を並べた時代もありました。
松尾大膳・結城兵部小輔
早良区次郎丸の民家の庭に松尾大膳の碑が建っています。この大膳は小田部家の家臣で落城後、次郎丸に移り住み瓜を栽培し生計を立てていたとか。時の黒田藩主にも献上し、大変な評判を得ていたそうです。しかし、兇人の刃に斃れたと伝わっています。
西区金武から日向峠へと向かう途中に乙石という集落がありますが、ここに古墓が建っています。これは小田部家に仕えた結城兵部小輔のお墓で、兵部小輔は乙石結城姓の始祖となります。もともとは阿波国の人であったが、室町幕府の13代将軍・足利義輝の怒りを買い、九州に流れて小田部鎮元を頼ったそうです。
西念寺
早良区田村に西念寺というお寺があります。このお寺のルーツをたどると安楽平城へとつながります。「真宗西念寺、当山は大字田字上にあって幽谷山と号す。大正年間荒平城落城後土生大和という者剃髪して了善と号し、此の寺を建立した」(早良郡誌)。
安楽平城物語
ここまで安楽平城関連のものをご紹介しましたが、最後にご紹介したいのは歴史本「安楽平城物語」です。著者の石津司さんは、福岡の高校で数学教師として教鞭をとりつつ、地元の安楽平城の歴史を、コツコツと足を使って調査し聞き書きを続けてこられた方です。30年かけて安楽平城物語を書き上げました。もの凄く緻密で詳細な文章は安楽平城の歴史を知る上で必読なものです。今回で安楽平城の記事は終了しますが、この本をもとに取材したいと思います。