黒田二十四騎から文豪まで
金龍寺の境内を散策します、前回の続きです。仁王門をくぐり、まずは右手の墓地エリアに向かってみましょう。
実は、こちらのお寺には黒田二十四騎の中の3名、衣笠因幡・林掃部・吉田長利の墓があります。
衣笠因幡は、天神の因幡町の由来になった人物ですね。有名な因幡うどんの名前は、元を辿ると彼の名前に由来しています。
林掃部は朝鮮で虎狩りをした事が有名な武将で、槍を持って一人で虎を狩った逸話があります。槍は虎がもがいた為に曲がりましたが、長政公は賞賛して槍に「虎衝(とらつき)」という名を付けました。
吉田長利は、母が官兵衛の乳母で、官兵衛とは乳兄弟にあたる武将です。一騎打ちが得意な豪将で、五十以上の首を取った逸話が残っています。
墓地エリアに行く途中に何やらお堂がありますね。
境内社のお稲荷さんでした。明治の廃仏毀釈までは、神仏習合の風習が普通だったので、たまにおみかけします。
墓地の入口にはお地蔵さんやら石仏がずらりと並んでいます。
金龍寺 妙清地蔵(朝鮮地蔵)
こちらは前述の林掃部によって朝鮮より連れ帰られたという、養女の妙清尼を祀った地蔵です。一体だけ向きが違うのは故郷の朝鮮の方角を向いているからです。
林掃部は朝鮮出兵の際、泣いている女児に出会いました。家に送り届けようとしましたが、しかし縁者は全て亡くなっていました。仕方なく日本に連れて帰り養います。そして女児はこの恩義に報いる為、林掃部が亡くなって金龍寺に埋葬されると、剃髪して金龍寺に入ったそうです。
金龍寺 境内
有名な武将たちも眠っている事から、黒田家の庇護もあつかったのでしょう。その結果境内も広々としていて、建物もとても立派です。
さらに本堂も最近改宗されたようで、非常に新しくて綺麗ですね。
中を拝見してみたかったのですが、しかしこの扉を開く勇気はありません。
そして、こちらは法事などで使う建物でしょうか?3階建てでかなり大きいです。
山門から仁王門方向をみた景色です。境内の広さが伝わるでしょうか?
お墓の横に、旧式のポンプがありました。おそらく墓参りの水汲み用で現役っぽいです。
儒学者 貝原益軒の墓
筑前国続風土記でいつもお世話になっております。黒田藩が誇る大学者・益軒先生。
益軒先生の墓所には、分かりやすく上の銅像と大きな石碑が建てられています。
さらに、そこから奥へ進むと東軒夫人と仲良く墓石が並んでいます。
それでは郷土史ブログとして発展していけるように、お参りしましょう。
倉田百三福岡寓居の記
さて、こちらは劇作家、評論家として大正期に活躍した倉田百三にまつわる石碑です。
肺結核を患い、病気静養のため来福した倉田百三は、実はここ金龍寺に寓居していました。
そして、金龍寺に寓居中に、『愛と認識との出発』・『俊寛』などを執筆。さらに、武者小路実篤の『新しき村』に共鳴してその支部を設置しています。
慣れ親しんだ近所のお寺でしたが、予想以上に見所が豊富で大満足です。