秀吉の怒りを買った古渓和尚を匿った博多商人
大同庵は博多の豪商たちが、九州へ配流になった古渓和尚を迎えるために作った庵です。
実は博多区奈良屋町の一角に現在も、庵の跡が石碑や井戸と共に残されています。
古渓和尚にちなんで、昔はこの辺を古渓町と呼んでいました。人気のある和尚さんで、博多の人々にも親しまれていたのですね。
古渓和尚こと、古渓宗陳は千利休の禅の師匠として知られています。千利休や豊臣秀長などと昵懇でした。しかし官僚派の石田三成から疎まれて、讒言で秀吉の怒りにふれ、博多に流されてしまいます。派閥争いに巻き込まれた形ですね。
茶の湯で繋がりのあった博多の豪商達は、利休から頼まれていた事もあり、庵を建てて大変丁寧に迎え入れました。この庵では、和尚の人柄を慕って来た人達と連日茶会が開かれていたそうです。
その後、豊臣秀長や利休のとりなしもあり、僅か一年程で都に戻る事になりました。
大同庵の古渓水
ところで、和尚が博多を去る際に、大変お世話になった博多の人たちに何か御礼がしたいということで、井戸を掘って残しました。これが古渓水です。
この井戸は生活用水としてだけではなく、火難除けとしても町の人たちに珍重されました。
現在はポンプ式に変わってはいますが、しかしバケツが横におかれているのでまだまだ現役のようです。
他には西門と彫られた石碑があります。何の石碑だろう?
最後に昔の町名を残したプレートです。西町流は山笠で所属する流れのことですね。