イエズス会への入会と除名
前回、イエズス会へ入会した千々石ミゲル達4名は、天草にあるコレジオに入学します。コレジオとは、聖職者育成の為の神学校です。
天草コレジオの具体的な場所は謎で、現代でも判明していません。かつては跡地の所在地を巡って旧本渡市と旧河浦町が激しい論争を繰り広げた事もありました。
コレジオで神学の道を歩む4人でしたが、しかしミゲルだけは、次第にイエズス会との距離を取るようになり、マカオへの留学も体調不良を理由に延期を続けていました。そして入会から10年も経たずに除名処分を受けています。
この時、何故ミゲルはイエズス会との距離を取るようになったのか原因は分かっていません。しかし、残された書物などから推測できる理由を上げると
- 奴隷売買を黙認したり、侵略行為を後押しするイエズス会に疑問を持った
- ヨーロッパで本物のキリスト教に触れ、日本における修道士の活動との違いに疑念を感じた
- 宣教師同志の争いに嫌気がさした
- 本当に健康状態が悪くなり、他の3人のように司祭を目指すことが難しくなった
- イエズス会の裏の顔を知り、日本に来た真の目的に気付いた
考えられる理由は、このような感じでしょうか。
脱会した千々石ミゲルは洗礼名を捨て、千々石清左衛門と名を改めて大村藩に仕官しています。実は大村藩の初代藩主・大村善前は従兄弟にあたります。大村藩からは伊木力に600石の領地を与えられました。
これまでの定説を覆す新発見
これまで、千々石ミゲルはキリスト教を棄教したというのが定説でしたが、2017年、千々石ミゲルの墓とみられる石碑の下から、欧州製のロザリオ等の埋葬品が見つかりました。この発見によりミゲルは、イエズス会は脱会したものの、キリスト教への信仰は棄てていなかった可能性が高くなりました。
棄教していないとなると、全ての話が繋がります。ミゲルは大村藩に出仕したものの、次第に藩政から遠ざけられて、最後には迫害される憂き目に合っています。これは日蓮宗に改宗した善前が、藩内のキリシタンを厳しく取り締まった事とリンクします。
その後、本家筋にあたる肥前有馬氏を頼って、日野江藩に移りました。しかし、ここでも他の家臣から瀕死の重傷を負わされます。最後には長崎へ移り住んでいます。おそらく、キリスト教の信仰を続けるには長崎に移住するしかなかったのでしょう。
千々石ミゲルの墓
最後に、多良見町にあるミゲルの墓へお墓参りに向かいました。
ミゲルの墓の入口前には、何ともクラシックなレンガ造りのトンネルがあります。しかし、周辺に駐車場などはないので、少し道が広がっている所に停めてお墓に向かいました。
お墓のすぐ横をJR長崎本線が走っています。
交通標識に取り付けられた案内板。
坂道をしばらく登ると、奥に祠のような建物がみえます。おそらくあれがミゲルの墓でしょう。
諫早市教育委員会による、大変丁寧な案内板がありました。
また、千々石ミゲル墓所調査プロジェクトを支援している方の芳名板もあります。
千々石ミゲルの墓
こちらが千々石ミゲルとその妻のお墓です。
写真ではみえずらいですが、中央に「妙法」と彫られて、二人の戒名のようなものがあります。おそらく表向きは、仏教式にしてあるのでしょう。
綺麗なお花が活けてありました。子孫の方々かな?だとすると遠い親戚ですね。キリスト教式にお祈りを捧げます。
裏に回ると千々石玄蕃と彫られています。玄蕃はミゲルの四男で、墓を建立した人物でしょう。
その後、ミゲルの孫娘たちは大村藩士の家に嫁ぎ、その中に私の母方の実家である岩永家があったようです。生涯に渡りキリスト教を信仰していたのは、ほぼ間違いないと思います。
ミゲルは日本に来ていた宣教師達に嫌気が指して距離を取ったのでしょう。しかし、その事が宣教師を信じるキリシタンから疎まれ、また、普通の日本人からも迫害されるという、板挟みの状態へ追い込まれてしまったようです。
天正遣欧少年使節のメンバーは、帰国後どのような活動をしていたのか、資料が少なく不明な点が多くあります。ただ、少しでもその足取りを掴めるように、個人的に研究を続けたいと思います。