筑前無双と評された勤王の志士
(前回の話はこちら)辛酉の獄で月形が幽閉されていた場所には、現在石碑が建てられています。福岡城下からも遠く、現在でも畑が広がる地域なので、当時はもっと寂しいところだったのでしょうね。
藩執政の役にあった加藤司書の運動により2年ほどで帰宅していますが、さらに蟄居を命じられて外出は禁止されていました。この頃、京都では八月十八日の政変が起こり、急進的な尊攘派公家と背後の長州藩が、薩摩と会津の連携により京都から追い出されてしまいました。長州の志士達は七人の公卿を奉じて長州に落ち延びました、世に言う「七卿落ち」です。
激動の時代に入ったこの年、脱藩した同志の平野国臣から、藩を出奔して共に決起して欲しいと持ち掛けられていますが、断っています。元々身分に差がある二人で藩内の立場も違ったので、同志とはいえ活動方針に違いがあったようです。この後、怒った国臣からは永訣状を送り付けられてしまいました。
その後、月形は罪を許されて藩政に復職します。ここから短期間ですが、月形の目覚ましい活躍がはじまりました。藩主の命をうけて肥前に赴き、対馬藩家老親子と「薩長協和」の協議をした記録が残っています。薩長を結びつける構想をこの頃から描いていた貴重な記録ですね。
同時期に幕府はこの機会に権威の回復を目指して「第一次長州征討」を開始しますが、福岡藩は征討中止、そして長州藩の延命を目指して運動を開始します。
五卿を太宰府へ
藩主・黒田長溥は加藤司書を広島へ派遣して、征討軍の解兵を建議します。薩摩藩の西郷隆盛と協力して長州藩の延命に尽力しました。この時に月形は五卿を説得して長州藩外への移転を実現させ、征討中止に貢献しています。また、 下関まで出向いて、五卿の護衛をしながら太宰府まで送迎しました。
太宰府天満宮の延寿王院へ五卿を送った後は、そのまま五卿の応接役を務めます。西郷隆盛や吉井幸輔など薩摩を代表する志士達をはじめ、太宰府に集まりはじめた各藩の志士達との交流も盛んになりました。
西郷はこの頃の月形の活躍ぶりに「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」と最大級の賛辞を送っています。(つづく)