伝播し始める薩長協和の志

五卿を太宰府に送り、藩をあげて保護に努めた月形でしたが、実は長州征伐により俗論党(佐幕派)に実権を握られ、長州から落ち延びてきた高杉晋作も、野村望東尼を紹介して平尾山荘に匿いました。

平尾山荘

高杉と月形は年齢は離れていましたが、平尾山荘で議論を重ね、意気投合して強い信頼関係で結ばれます。高杉は月形を「その気骨に至りては 稜々たるものあり」と評しています。10日ほど滞在して、気力を取り戻した高杉が帰国する際には、自分の蔵書を売り捌いてまで路銀を調達し、餞別として渡しました。

高杉晋作
高杉晋作

高杉晋作は亡くなる間際に、藩主から100石の禄高と谷姓を見舞いとして贈られています。臨終までの十数日間は高杉晋作ではなく、谷潜蔵として過ごしました。字こそ違いますが、下の名前は月形洗蔵にあやかってつけたものでしょう。このエピソードからも二人の深い信頼関係がうかがえます。

松屋
旧薩摩藩定宿・松屋

西国を代表する2大雄藩の志士二人と繋がりをもった月形が、二人を結びつけて幕府に対抗しようと考えたのはごく自然の流れだったのでしょう。太宰府の旅宿・松屋にて、同志の早川勇と共に、西郷を塩漬けの猪肉でもてなした記録が残っています。この時に長州と連合の話も打診したと推測されます。

維新の庵

ちなみにこの松屋は現在も太宰府の参道に茶屋兼お土産屋として現存しており、中を見学する事も可能です。薩摩藩指定の定宿であり、延寿王院からも歩いてすぐの距離です。大久保利通や村田新八も泊まったのかな?とか考えると浪漫がありますね。

薩摩藩定宿松屋

延寿王院の応接係だった月形の元には、続々と各地から勤王の志士達が集まりました。そんな志士達を相手に月形をはじめとした筑前勤王党は、薩長協和の構想を伝えていきます。月形と直接の面識があったかは不明ですが、土佐から脱藩して動いていた中岡慎太郎坂本龍馬も、太宰府に立ち寄った記録が残っています。

筑前勤王党を襲う大粛清

薩摩・長州・筑前の3藩の連携で幕府へ対抗し、太宰府で匿っている五卿の復権を虎視眈々と狙っていた月形達でしたが、幕府が長州再征の命を下し、福岡藩へ圧力をかけると藩内の空気が一変してしまいます。筑前勤王党の首領だった加藤司書は職を罷免され、 五卿の 身柄も不安定にな状態に陥ってしまいました。

追い詰められた月形達は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移し、西国の勤王派志士達に総決起を促すことを画策します。藩主が反対した場合は、犬鳴山へ軟禁し、息子の黒田長知を立てて計画を強行するという一種のクーデーターのような強硬論も、一部の党員たちが画策します。

 黒田長知
黒田長知

この計画を事前に察知した藩主・黒田長溥は激怒し、筑前勤王党および攘夷派を根こそぎ一掃する、 世にいう 乙丑(いっちゅう)の獄 に踏み切りました。藩士ならびに関係者140名以上が捕縛され、家老・加藤司書ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首、野村望東尼ら15名が流罪となり、藩内の勤王派は消滅します。これ以後の福岡藩は、薩摩・長州と距離を取り、徹底して幕府に恭順しながら幕末を迎え、結果的に明治新政府では発言力を失いました。

 月形洗蔵 の墓
月形洗蔵 の墓

最後は斬首という、武士ではなく罪人として処刑されてしまった月形でしたが、その志は太宰府に出入りしていた他藩の志士達に引き継がれ、土佐出身の坂本龍馬と中岡慎太郎が主導して薩長同盟は成立しました。お墓は福岡の中心部天神から徒歩圏内の、黒田家縁の人も眠る少林寺の山門横にあります。生前に付き合いのあった志士達の運動があったのでしょう、維新後に正四位という官位が贈られました。

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